Hertbeat 2
Heartbeat 2
遠くにうっすらと残照が残っていた空は、すっかり夜の闇に覆われていた。
長いキスに湿っていた唇はとうに渇き、
激しい鼓動と浅くなった呼吸を宥めるように抱きしめていた腕を解いて、
セバスチャンは僕に薄く微笑んだ。
「そろそろ戻りましょうか。」
すっと立ち上がると、手を差し伸べてきた。
あまりに自然な動きだったので、つい、その手を取ってしまった。
後悔したが、もう遅い。
手を繋いだまま車を止めた所まで並んで歩く。
僕はなんとも居た堪れなかった。
マンションが立ち並ぶ中の公園には二人きりしかいなくて、
誰にも見られてなどいないけれど、問題はそこではない。
自分自身が知って、分かっている事が問題なのだ。
セバスチャンと並んで歩いたのはこれが初めてなのだった。
殆どの場合、僕が先を歩き、セバスチャンは後ろから付いて来る。
それが今までの関係だったのに。
こんな風に横に並んで、あまつさえ手まで握られて歩くなどとは。
状況に思考が追いつかないというのはこういう事かと納得した。
何時ものように助手席のドアを開け、僕を乗せる。
握っていた手を名残惜しげに離すセバスチャンが、額に軽く唇を付けた。
ザッと音がしそうな勢いで体を引いた僕を見て、セバスチャンがクスリと笑う。
「おや、先程のキスをお忘れですか?」
一瞬で耳まで赤くなっているだろう自分の姿が鏡など無くても分かる。
ああ、そうだった。
セバスチャンというのはこういう奴だ。
何気ない風を装って人の感情に爪を立てて反応を楽しむのだ。
せっかく落ち着きを取り戻していた僕の心臓は、また早鐘を打っている。
助手席のドアが閉じられてしまうと、
車の中の空気がここへ来るまでとはまた違う意味で、僕には居心地が悪く感じた。
拾われた猫というのはこんな感情を持つのかもしれないと思う。
不安と僅かな安堵がない交ぜになったもやもやとし気持ち。
するりと運転席に落ち着くと、セバスチャンは涼しい顔で静かに車を発進させた。
車窓を流れていく景色を見ているフリをしながら、
何か当たり障りの無い話題でも口に出そうかとしたのだけれど、
どんな事をどう話せばいいものだろうと懸命に考えを巡らすのに何も浮かばず、
用も無いのに運転席を見やる勇気も起きなくて、
結局は黙り込んだままで外に目を向けている以外になかった。
公園からセバスチャンのマンションまでは2ブロックほどしか離れていないが、
駐車場に車が止まった時には何処へ遠出をして来たのかというくらい、
すっかり気疲れしてしまっていた僕は、
会社の取引先の喰えない狸や狐達との会議の方が、
周到に計算して用意をしておける分まだしも気が楽だと思った。
車を降りる時にまた手を取られ、家に着くまでその手が離される事は無かった。
無言で視線をあらぬ方向に向け続ける僕に、
セバスチャンが声を掛ける事はなかったけれど、
真横を僕の歩速に合わせて歩く間、僕に何度も視線が向けられていると分かっていた。
温度でなく、感触でもないのに、確かに皮膚感覚として眼差しを感じる。
しかも、含まれている感情まで伝わってくるような気がするなんて。
手を握られている以上、僕の体温が上がっているのは隠しようもない。
今、セバスチャンは確かに、その顔に笑みを浮かべているのに違いなかった。
それぞれの部屋へと別れて行く時にやっと手が解放され、
これでやっと思考と感情の平静を取り戻せると思った僕だったが・・・。
「今夜は“寄り道”をしてしまいましたので、夕食は簡単なものにさせて下さいね。」
明らかに強調して“寄り道”とセバスチャンは言った。
わざと僕を動揺させ反応を楽しんでいる事に流石に腹が立って、
キッと鋭い視線で振り返って睨みつけてやると、
セバスチャンはさも愉快そうにクスクスと笑いながら部屋に消えた。
何という性質の悪い男なのだろう。
彼への評価の中から“品行方正”の項目は除外しなければならない。
もとより僕とは倍以上に年齢が離れているのだし、
あの見た目からしても誰とも付き合った事がないなどと思ってはいなかったが、
僕をからかう様子から推察するに、
それ相当の場数を踏んでいるとみて間違いないだろう。
なのに、何処へ行っても引く手数多であるセバスチャンが、
一体何時から、そして何をきっかけとして僕の方を向いたのかとふと考えた時、
自分自身に向かっても同じ疑問を持った。
僕は、何時の間にこんな感情を積もらせてきたのだろうか。
セバスチャンが夕食の支度をする間、僕は自室に籠って調べものをする事にした。
顔が見える所に居て、また構われるのはご免だったから。
初めて打ち込むキーワードをパソコンに打ち込んで調べていたが、
僕は、「言葉」に翻弄されていた。
正しくは「言葉の意味」に。
幾種類もの辞書を巡り、心理学的、哲学的な意味までを検索してみた。
けれど、何かしっかりと納得できないという感じがするのだ。
この身の内に湧くものに、僕は名前を付けかねて苛立っている。
実態を把握できるものとは闘う事が出来るが、漠然としたものと闘うのは難しい。
名を与える事で「それ」に実態を取らせようとしたのだが、
返って曖昧模糊としていくばかりなのだった。
これでは闘いようがない。
僕は途方に暮れてしまっていた。
パソコンの画面に表示された言葉の羅列を見ながら、深い溜息を零す。
「やはり聞くべきではなかったな。」
車の中での事を思い返し、呟く。
このままでは遠からず重大な局面を迎えてしまうのは目に見えている。
アン叔母様は、こういった事には非常に勘の鋭い人だ。
特に院内の場合などは噂が立つよりも早く察知しているのを僕はよく知っている。
ただ、問題が起きる気配があるのでなければ干渉したりはしない。
けれど、今回は僕という身内が係わり、
しかも僕が未成年であるという事実は大きな意味を持つだろう。
万一にも噂になってしまったなら、父の会社を継いでいる僕も打撃を受けるが、
セバスチャンの方がより大きなダメージを受けるのは間違いない。
それを回避するには、開きかけている扉を閉じるのが一番有効なのだ。
だが、僕には、今まで存在さえ知らなかった扉を閉じる方法が分からないのだった。
簡単なものと言った割には、皿数が少ないだけで、
きちんと栄養のバランスが考えられた食事が用意されている。
仕事で疲れているだろうに、全くこまめな男だと思う。
本人に言わせれば、料理は趣味の一つなのだそうで、
調理に集中する事で仕事の事を忘れられ、良い気分転換になるのだと言う。
今夜も、シェフにも劣らぬ腕で作られた僕の舌を満足させる食事を平らげた所で、
セバスチャンが食後の紅茶と林檎のコンポートのアイスクリーム添えを運んできた。
「坊っちゃん、また何かお一人で考え込んでおいでですね。」
カップに指を掛けようとしていた僕にセバスチャンが言った。
瞬時に自室を出て来てからの自分の行動を思い返すが、不自然な所は無い筈だ。
「別に何も無い。」
素知らぬ顔で紅茶を一口飲み下す。
向かい側に座っているセバスチャンが表情を読めない顔で僕を見ている。
今までの経験からいって、こんな時の彼はとても不機嫌になっているのだ。
遠くにうっすらと残照が残っていた空は、すっかり夜の闇に覆われていた。
長いキスに湿っていた唇はとうに渇き、
激しい鼓動と浅くなった呼吸を宥めるように抱きしめていた腕を解いて、
セバスチャンは僕に薄く微笑んだ。
「そろそろ戻りましょうか。」
すっと立ち上がると、手を差し伸べてきた。
あまりに自然な動きだったので、つい、その手を取ってしまった。
後悔したが、もう遅い。
手を繋いだまま車を止めた所まで並んで歩く。
僕はなんとも居た堪れなかった。
マンションが立ち並ぶ中の公園には二人きりしかいなくて、
誰にも見られてなどいないけれど、問題はそこではない。
自分自身が知って、分かっている事が問題なのだ。
セバスチャンと並んで歩いたのはこれが初めてなのだった。
殆どの場合、僕が先を歩き、セバスチャンは後ろから付いて来る。
それが今までの関係だったのに。
こんな風に横に並んで、あまつさえ手まで握られて歩くなどとは。
状況に思考が追いつかないというのはこういう事かと納得した。
何時ものように助手席のドアを開け、僕を乗せる。
握っていた手を名残惜しげに離すセバスチャンが、額に軽く唇を付けた。
ザッと音がしそうな勢いで体を引いた僕を見て、セバスチャンがクスリと笑う。
「おや、先程のキスをお忘れですか?」
一瞬で耳まで赤くなっているだろう自分の姿が鏡など無くても分かる。
ああ、そうだった。
セバスチャンというのはこういう奴だ。
何気ない風を装って人の感情に爪を立てて反応を楽しむのだ。
せっかく落ち着きを取り戻していた僕の心臓は、また早鐘を打っている。
助手席のドアが閉じられてしまうと、
車の中の空気がここへ来るまでとはまた違う意味で、僕には居心地が悪く感じた。
拾われた猫というのはこんな感情を持つのかもしれないと思う。
不安と僅かな安堵がない交ぜになったもやもやとし気持ち。
するりと運転席に落ち着くと、セバスチャンは涼しい顔で静かに車を発進させた。
車窓を流れていく景色を見ているフリをしながら、
何か当たり障りの無い話題でも口に出そうかとしたのだけれど、
どんな事をどう話せばいいものだろうと懸命に考えを巡らすのに何も浮かばず、
用も無いのに運転席を見やる勇気も起きなくて、
結局は黙り込んだままで外に目を向けている以外になかった。
公園からセバスチャンのマンションまでは2ブロックほどしか離れていないが、
駐車場に車が止まった時には何処へ遠出をして来たのかというくらい、
すっかり気疲れしてしまっていた僕は、
会社の取引先の喰えない狸や狐達との会議の方が、
周到に計算して用意をしておける分まだしも気が楽だと思った。
車を降りる時にまた手を取られ、家に着くまでその手が離される事は無かった。
無言で視線をあらぬ方向に向け続ける僕に、
セバスチャンが声を掛ける事はなかったけれど、
真横を僕の歩速に合わせて歩く間、僕に何度も視線が向けられていると分かっていた。
温度でなく、感触でもないのに、確かに皮膚感覚として眼差しを感じる。
しかも、含まれている感情まで伝わってくるような気がするなんて。
手を握られている以上、僕の体温が上がっているのは隠しようもない。
今、セバスチャンは確かに、その顔に笑みを浮かべているのに違いなかった。
それぞれの部屋へと別れて行く時にやっと手が解放され、
これでやっと思考と感情の平静を取り戻せると思った僕だったが・・・。
「今夜は“寄り道”をしてしまいましたので、夕食は簡単なものにさせて下さいね。」
明らかに強調して“寄り道”とセバスチャンは言った。
わざと僕を動揺させ反応を楽しんでいる事に流石に腹が立って、
キッと鋭い視線で振り返って睨みつけてやると、
セバスチャンはさも愉快そうにクスクスと笑いながら部屋に消えた。
何という性質の悪い男なのだろう。
彼への評価の中から“品行方正”の項目は除外しなければならない。
もとより僕とは倍以上に年齢が離れているのだし、
あの見た目からしても誰とも付き合った事がないなどと思ってはいなかったが、
僕をからかう様子から推察するに、
それ相当の場数を踏んでいるとみて間違いないだろう。
なのに、何処へ行っても引く手数多であるセバスチャンが、
一体何時から、そして何をきっかけとして僕の方を向いたのかとふと考えた時、
自分自身に向かっても同じ疑問を持った。
僕は、何時の間にこんな感情を積もらせてきたのだろうか。
セバスチャンが夕食の支度をする間、僕は自室に籠って調べものをする事にした。
顔が見える所に居て、また構われるのはご免だったから。
初めて打ち込むキーワードをパソコンに打ち込んで調べていたが、
僕は、「言葉」に翻弄されていた。
正しくは「言葉の意味」に。
幾種類もの辞書を巡り、心理学的、哲学的な意味までを検索してみた。
けれど、何かしっかりと納得できないという感じがするのだ。
この身の内に湧くものに、僕は名前を付けかねて苛立っている。
実態を把握できるものとは闘う事が出来るが、漠然としたものと闘うのは難しい。
名を与える事で「それ」に実態を取らせようとしたのだが、
返って曖昧模糊としていくばかりなのだった。
これでは闘いようがない。
僕は途方に暮れてしまっていた。
パソコンの画面に表示された言葉の羅列を見ながら、深い溜息を零す。
「やはり聞くべきではなかったな。」
車の中での事を思い返し、呟く。
このままでは遠からず重大な局面を迎えてしまうのは目に見えている。
アン叔母様は、こういった事には非常に勘の鋭い人だ。
特に院内の場合などは噂が立つよりも早く察知しているのを僕はよく知っている。
ただ、問題が起きる気配があるのでなければ干渉したりはしない。
けれど、今回は僕という身内が係わり、
しかも僕が未成年であるという事実は大きな意味を持つだろう。
万一にも噂になってしまったなら、父の会社を継いでいる僕も打撃を受けるが、
セバスチャンの方がより大きなダメージを受けるのは間違いない。
それを回避するには、開きかけている扉を閉じるのが一番有効なのだ。
だが、僕には、今まで存在さえ知らなかった扉を閉じる方法が分からないのだった。
簡単なものと言った割には、皿数が少ないだけで、
きちんと栄養のバランスが考えられた食事が用意されている。
仕事で疲れているだろうに、全くこまめな男だと思う。
本人に言わせれば、料理は趣味の一つなのだそうで、
調理に集中する事で仕事の事を忘れられ、良い気分転換になるのだと言う。
今夜も、シェフにも劣らぬ腕で作られた僕の舌を満足させる食事を平らげた所で、
セバスチャンが食後の紅茶と林檎のコンポートのアイスクリーム添えを運んできた。
「坊っちゃん、また何かお一人で考え込んでおいでですね。」
カップに指を掛けようとしていた僕にセバスチャンが言った。
瞬時に自室を出て来てからの自分の行動を思い返すが、不自然な所は無い筈だ。
「別に何も無い。」
素知らぬ顔で紅茶を一口飲み下す。
向かい側に座っているセバスチャンが表情を読めない顔で僕を見ている。
今までの経験からいって、こんな時の彼はとても不機嫌になっているのだ。
作品名:Hertbeat 2 作家名:たままはなま