右肩の蝶
ヤツの瞳に映る僕の目が、笑っている。
瞼を閉じるのと、唇の感触を感じるのは、ほぼ同時だった。
触れた唇は、柔らかく僕を食み、次第に角度を深くする。
口腔へと差し出されるヤツの舌を、 僕は受け入れる。
触れられる限りの所を、浅く深く、堪能していくヤツ。
今までの距離と時間を埋めようとしているのか。
鼓動は早くなり、呼吸は浅くなっていく。
このままでは、膝に力が入らなくなってしまいそうだ。
誓いのキスというには、少々熱が籠り過ぎていた。
唇を離したヤツの眼は、妖しげな光を宿す。
もう一度唇を寄せて来るやつを静止して、儀式としてのけじめを教える。
思うままを許してしまっては、主従とは言えなくなってしまうから。
「イエス。マイ・ロード。」
礼の姿勢を取ってそう答えたヤツだが、立ち上がり様、僕を横抱きに掬い上げた。
僕は驚いて、反射的にヤツの頸にしがみ付いた。
人間だった頃は、こうして事あるごとに抱き上げられたものだ。
しかし、悪魔に転生してからのヤツは僕から距離を取っていたし、
こんな事は無かったので、思わず声が出てしまった。
ヤツは、いつものようにくすりと笑った。
自分が僕を抱き上げるのは、今に始まった事でもないだろうと言って。
コイツは、自分がどれ程の長さ、不在にしていたのかを失念している。
そんな昔の事は忘れたと告げ、僕はヤツの胸元に顔を埋める。
ヤツの胸の広さも、匂いも、どんなに遠かったか。
忘れそうに、遠く離れていたのだ。
低めだからといって、温もりがない訳ではない。
この体温も、忘れてしまうのかと思いそうだったのだ。
ヤツの腕が力を強くして、僕をしっかりと胸に押し付ける。
この腕の、力強さ。
もっと、骨が軋むほどにと、僕は思う。
二度と忘れさせないと言って、髪に口付けたヤツ。
肩に額を強く押し当てて、僕からの赦しを示す。
嘘を禁じられているヤツがそう言うのだから、もう二度と、こんな思いはしない。
そういうところだけは、信じていいのだった。
ヤツは、僕を抱きかかえたまま、屋敷まで帰って来た。
心なしか、ヤツの鼓動が早いように感じる。
寝室のベッドに、僕を下ろす。
もう眼帯をつけることの無くなった右眼に、キスを落とされた。
眉根を寄せて、困ったような顔で微笑むヤツ。
「坊ちゃん、手加減できそうにないのですが、お許し下さいますか?」
切なく苦しげな声。
僕を真上から見下ろすヤツの頬には、漆黒の髪が掛かっている。
それを、耳に掛けてやり、そのまま後頭部に手を回して、
ゆっくりと僕の方へ引き寄せる。
鼻先が触れるくらいにまで近づけたところで、囁く。
「僕は、手加減など頼んだ覚えはないぞ。」
ヤツは一瞬、目を見開いたが、すぐに不敵に笑って見せた。
「そんな事をおっしゃって。
後悔なさっても、私の所為ではありませんからね。」
「望むところだ。」
強い眼差しでヤツを見て、くすくすと笑った。
いくら応えても、ヤツは求める事を止めない。
僕は、ヤツに求められるままに限界いっぱいまで応えては、意識を飛ばす。
欲しがるヤツに、僕の全てを与えたい。
僕もまた、ヤツを欲しているのだった。
今まで、どれだけ手加減していたのかと思う激しさが、僕を狂わせる。
声を上げ、身体を仰け反らせては果てるのだ。
何度でも。
僕の右肩に蝶がとまる瞬間に気が付かない程、溺れていた、
昨夜の僕の姿を思うと、ヤツに顔を見られるのさえ恥ずかしく、
どうしていいか分からなくなって、頭まですっぽりとシーツの中に潜り込む。
朝の支度をさせようと、ヤツが、僕にシーツの中から出て来るように促すが、
どんな顔をしていればいいと言うのか。
今まで一度も付けさせたことの無い印が、右の肩にあるのに。
恥ずかしさで体温が上がる。
声を殺していても、ヤツが笑っているのが気配で分かる。
僕は体を縮こまらせて、枕に顔を押し付けた。
ギシリと音を立てて、ベッドが沈むのを感じる。
ヤツが、シーツを被った僕の上から体重を掛けてきた。
耳の辺りに顔を寄せて来る。
「誘っていらっしゃるのですか?」
シーツ越しに、ヤツの声と息が、耳に届く。
身体がビクンと反応するのは、止められない。
すぐに言い返したいのに、言葉が出て来なかった。
一瞬遅れて、シーツを跳ね除けて飛び起きる。
「そんな訳あるか!!」
既に身体を引いて備えていたヤツが、笑っている。
静かな笑顔で。
ゆっくりと差し出される、白い手袋をした手が、僕の背中に回される。
ヤツが、大事そうに、僕を胸へと引き寄せるから、
僕は身体の力を抜いて、ヤツの肩に凭れ掛かる。
ここは、僕の場所。
「私の坊ちゃん。」
ヤツの声がくぐもって聞こえる。
「声に出して言うな、恥ずかしい。」
「そうおっしゃるから、印を付けたのですが?」
声に出すのが恥ずかしければ、印を付ければいいらしい。
僕も、こいつの右肩に赤い蝶を止まらせよう。
お前は、僕のものだと言う代わりに。
End