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たままはなま
たままはなま
novelistID. 47362
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月の船

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月の船



最近、ヤツは屋敷の見回りが済んだ深夜、何処かへと出掛けて行くらしい。
何故それを僕が知っているのか。
僕が眠れていないからだ。
一日の最後の見回りをする頃には、確かに僕は眠っている。
けれど、僕はそのまま朝までゆっくりと眠れるような子供ではないのだ。
悪夢を見る日の方が、夢も見ない日よりも多い。
夢見が悪くて目を覚ましても、ヤツが屋敷に居る時には直ぐに寝室に来て、
もう一度眠れるようにとホットミルクなどを持ってくるのだが、
このところは、それが無い。
そして、翌朝、僕を起こしに部屋に入ってきたヤツからは、
知らない甘ったるい匂いが微かにするのだ。
女物と思われる香水の残り香。
毎回違う香りだ。
気が付かない振りでやり過ごすが、気分がいいわけはない。
聞き出す事は簡単だ、ヤツは僕の命令には背けないのだから。
なのに、黙っているのは、理由を知りたくないからだ。
キツイ女物の香水の残り香をさせた事が、以前にあった。
あの時は、情報を得るのに、他に方法がなかったので仕方が無かったのだ。
でも、今回は違う。
今は裏の仕事は何も入っていない。
それでも尚、こんな匂いを付けて帰ってくる理由は、一つしか思い浮かばなかった。
悪魔は、享楽に貪欲な生き物だからだ。

契約はヤツを縛る。
しかし、首輪付の犬だからといって、主人以外に気を引かれないのではない。
ヤツはオスで、オスはやはり本能でメスを求めるものなのだ。
僕に本能を引き留める術は無かった。
だから、黙っているのだ。

月が天空高く昇り切った時間に、僕は目を覚ました。
だが、ヤツは来ない。
いつ何時、“鼠達”が来るかも分からないこの屋敷からは、
そう遠く離れてはいないのだろうが、今、ここには居ないのだ。
何処にいようとそんな事はどうでもいい。
ここではない何処かに行っているという事実だけで充分だった。
枕に顔を埋める様にして、僕はゆっくりと細く息を吸い、
同じ分だけ細く息を吐いていく。
目頭が熱い。
瞼を閉じれば、溢れた水分がアイロンの効いたピローケースに吸い込まれる。
僕は何と愚かなのだ。
こんな事で・・・。
下らないと思うのに、瞼の隙間からは止め処なく温い水が零れてくるのを抑えられない。
呼吸は僅かに震えている。
けれど、寝室は静寂のままだ。
大丈夫だ、もうじきこんなものは止まる。
いや、止める。
朝、瞼を腫らしてヤツに見咎められるような無様な真似はしない。
僕はヤツの飼い主らしく、何時ものままに尊大な顔をして目を覚ましてやる。
少しだけ、もう少しだけ止めるのに時間が必要そうだけれど。

まだ眠れずに、ぼんやりと滲む視界で天井を見上げていた。
ドアが開く音がして、慌てて寝返りを打つ振りをして俯せになる。
「坊っちゃん、お休みになれないのですか?」
返事をする気は無い。
ヤツは足音を忍ばせてベッドの脇まで来て立ち止まった。
「坊っちゃん?」
また、香水の匂い・・・。
匂いが歯痒い。
肺が苦しくなる。
ああ、心臓も痛いかもしれないな。
こんな風に近付かれたくない。
早く部屋から出て行ってくれないだろうか。
「どうなさったのです?坊っちゃん。」
僕の上にヤツが屈み込んできた。
更に強く香水が香って来る。
もう限界だった。
「香水の匂いがキツイ!鬱陶しい!」
バサリとシーツを跳ねのけて体を起こした。
「眠れないだろう!邪魔だ!出ていけ!」
屈み込んでいたヤツの顔が近過ぎてドキリとした。
「坊っちゃん、何をお考えになられていらっしゃるのか大体の想像が付きますが、
私の話を聞いて下さいませんか?」
ヤツの言い分など聞きたくもなかった。
「お前から聞く事なんて何も無い!」
ベッドへと身を沈め、シーツを頭から被ってしまう。
固く目を瞑り、体を丸めて、気持ちを殻に閉じ込める。
「坊っちゃん、この香りは庭の薔薇からエッセンスを取り出し、
他の花やハーブからも香料を作って調香している香水の香りですよ。」
「はっ、苦しい言い訳だな!」
ばかばかしくて笑える。
「私が嘘を吐かないのは、坊っちゃんが一番良くご存知でしょう?
庭で摘んだ花弁を水蒸気蒸留してエッセンスを抽出するところからしているのです。
先程も少し火傷をしてしまいましたよ。」
怪我の跡など直ぐに消えてしまうヤツだが、程度によってはまだ残っているかもしれない。
一応、確認してみてもいいだろう。
身体を起こしてベッドヘッドに体をもたせ掛ける。
「見せてみろ。」
手袋のままの左手を差し出してきた。
「どうぞ。まだ治りきっていない筈ですからご覧になってみて下さい。」
絹の白い布が、大柄な割にほっそりとした指にぴたりと沿っていた。
手首のボタンを外して、指先から引っ張ると、契約印が現れる。
僕の瞳の中のものと同じその印は、僕の犬である証。
すっかり露わになった右手の指先に、薄く火傷の跡が残っているのが確認できた。
「ふん、確かに火傷は負っていたようだな。」
黒い爪の際に、まだ赤味が残っているのが見えた。
「こうして手袋をしていない私の手を見せるのは、坊っちゃんだけですよ。」
声が、香水の匂い同様に甘い。
「どうして香水を調香しているんだ?」
嘘は付かないが、訊ねなければ言わないままでいるのは契約違反ではない。
「どうして?私が貴方の為以外に行動するとでも?」
素肌の指先が、僕の唇をなぞる。
手袋をしていない指は、他の誰にも見せる事のないものだ。
この温度を知っているのは、僕だけ。
「また何かの折に必要になるかと思いまして。
コルセットを締め付ける時の坊っちゃんのお姿もお可愛らしかったですが、
寧ろ、外す時の方が背徳的でそそられましたね。」
まるで何かの陰謀の様に、この僕がドレスを着せられて捜査をした時の話だ。
アン叔母様に括れが大事だとか言われて、内臓が出るかと思う程に締め上げられた。
あの時に出会ったある子爵とは、どういう因果かあちこちで縁があって、
会う度に、全くもってうんざりしている。
「それと香水の調香と何の関係があるんだ?」
「次にドレスをお召しになられる時には、より本物のレディらしく、
香水もお使いになられた方がよろしいかと思いまして、裏の小屋で作っております。」
ヤツはにっこりと音のしそうな笑顔を向けてきた。
「僕は、もう二度とドレスを着る様な仕事はしないぞ!」
重いし、苦しいし、動けないし、冗談ではない。
「仕事でなくても構わないと思いますけれど。」
「着ない!」
仕事でも着ないものを、なぜ私的に着るというのだ。
「では、香水だけをお召しになられるのはいかがです?
今夜の調香の香水は、坊っちゃんがお好きな白い薔薇をベースにしたもので、
きっとよくお似合いになられますよ。」
そう言って、胸元のポケットから小振りな瓶を取り出した。
蓋を開け、少し指先に取ると、僕の手首にそれを塗る。
紅茶のような香りが立ち上った。
「初めは紅茶の様な香りがしますが、その後、白い薔薇の香りに代わり、
最後は甘い果実の香りになります。」
その説明を聞き、僕は、ヤツが何をイメージしたのか分かった。
契約が終了する時に、この悪魔の好みの味に仕上がった魂の香り。
滴るほどに美味な、熟れた果実。
あからさまな奴だな。
作品名:月の船 作家名:たままはなま