4(ver.1.0).迎撃戦
「いつまで見物を続けるつもりなのかしら、助手さん?」
どうやら気を失ったらしく、ぐったりと椅子に沈み込んでいるヤコから手を離し、身体を起こすと、女――アヤ・エイジアが背中越しにそう声を掛けてきた。
予測済みの事態ではあるが、やはり、我が輩には気付いていたか。
それとも、先だってこのゾウリムシを『メインディッシュに仕立てる』などと言っていたときから、我が輩がこの場にいることを想定していたのか。
「やれやれ、敵いませんね。世界の歌姫は気配を読むのもお上手と見える」
「気配ではないわ。あなたがたお得意の推理、よ。
私が彼女に何か仕掛けるそぶりを見せれば、あなたは逐一観察してくるだろうと思った」
なるほど、後者だったらしい。まあ、どちらでもいいが。
椅子に沈んだままの奴隷人形のもとへ近寄ると、アヤ・エイジアの視界を遮るように腕を伸ばす。
「それで?」
片腕で抱き上げると、完全に力の抜けているのが判った。
これではナメクジそのものではないか。
「こんなものを」
どさりと応接用のソファに投げ下ろしても、固く閉じられたままの瞼は開かない。
先程の歌が何らかの催眠作用を呼び起こしているのは確かだが、これはいささか効き過ぎではないか?
「僕に見せて、どうしようと言うんです?」
横たわるヤコの身体の前に浅く腰をかけると、足を組み、膝の上で両手を組む。
滑稽だな。
かろうじて、言葉は助手の体裁を保ってはいるが、これでは、説得力は著しく低い。
「そうね」
アヤ・エイジアは、口元だけでにこりと笑みをかたちづくり、我が輩と向き合う形でソファに腰をおろした。
知らず形成されてしまった攻撃態勢が、後ろに横たわる、眼前に座る、どちらの女に引き出されたものかなど、疑問に思う時点で、滑稽だ。
「あなた、この事態をどう思う?」
「どう、とは?」
あまりにも要領を得ない謎欠けに、オウム返しに問い直す。
謎のかたちをとってはいるが、この女は所詮自分で仕掛けたゲームの回答を気持ちよくしゃべりたいだけだ。
適当に相槌を打ってしゃべらせておけば良さそうだ。
「私の歌の力については説明したでしょう?
私の歌は、ある特定の人の脳を直接揺さぶることができる」
「ええ、伺いました」
ヤコが持っていた円盤に収められた音も何種か聞いてみたが、同種、同パターンの波動をいくつか拾い出すことは出来ても、そのメカニズムを解明するには至らなかった。物質の分析ならばともかく、音となると、手のつけようがない。
「今までは、もともと『ひとりきり』だと感じている人間を対象に歌ってきたわ。けれど、最新のアルバムの製作が終わってから、ずっと考えていたことがあるの。
後天的に『ひとりきり』になった人間にも、私の歌は力を持つものなのか、とね」
そうして、すっと細めた視線をヤコの顔に向ける。
獲物を前にした獣の視線。なぶるように、舐めるように、ねっとりと絡みつく。
「探偵さんは、かわいいひとね」
「ウチの先生など、美しさにかけては、あなたの足元にも及ばないと思いますが?」
「外側の皮一枚の醜美なんてくだらないわよ。
素直で、明るくて、やさしくて。無防備に、すぐとなりの人間を信頼している」
粘着質だった視線が、我が輩の顔に載せられた途端、鋼の刃に姿を変えた。
「けれど、彼女の安定は、かなり危ういところで保たれているわね。
自己の存在が根幹から揺らぐような出来事に直面してから、まだ、あまり長い時が経っていないんじゃないかしら?
そして、それを支えているのは、たったひとりの人間」
我が輩は、人間ではないがな。
そして、たかだか人間の女ひとりが突きつけてくる刃の切っ先などに怯むほどの馬鹿でもない。まして、まともに斬りつけられるなど真っ平だ。
「だから、その信頼を揺るがすような出来事があれば、すぐに私の望む状態に堕ちてくれると思った。
彼女を、『ひとりきり』に加工してみたいと思ったのよ」
アヤの指が、自分の唇をなぞる。
この女、自分の目的のために我が輩を利用したと?
「おやおや、ずいぶん物騒なことをおっしゃいますね。
人間を加工するなどと、マッドサイエンティストかテロリストの物言いに聞こえますよ」
「そんなつもりはないわ。私はただ、自分の歌の可能性が見たいだけ。
それに、そうね」
もう一度ヤコに視線を落とすと、アヤは口元を歪めた。
それは、ヤコが何かしらの生ゴミを食す際に浮かべる芯からの笑みに似てはいた。ただ、ずっと、性的快感と近くにあり、我が輩がする表現としては甚だ不適当だが、禍々しい、笑みだった。
「探偵さんが『ひとりきり』になったところが見てみたかったのよ。
私の歌に堕ちてゆく彼女が、見たかった」
紅い舌が、ぺろりと唇にはう。
「思ったとおり、彼女は完璧なメインディッシュだったわ」
ぱぁん!
そのセリフを知覚した途端、奴と我が輩の間にガラスの破片が飛び散った。
応接用テーブルの上に載せられていた手のひらほどの小さな花瓶がこなごなに砕けて見る影もなくなっている。
「やあ、危ないな。お怪我はありませんでしたか?」
我が輩が差し伸べた腕をさかのぼるようにして、アヤが視線を突き入れてくる。
「何をしたのだか判らないけれど、助手さん。……あなた、同じ穴の狢って言葉、知っていて?」
ふわりと、微笑む。
オナジアナノ、ムジナ。
この間暇つぶしに読んだ広辞苑とやらに記述があった気がするな。
なるほど。我が輩と自分をひとくくりにする気か。人間風情が、生意気な。
「何がおっしゃりたいのやら、判りかねますね」
「そう?わりに頑固なのね」
向かいに揃えられていた細い足の片方が浮き上がるように動く。組まれた膝の頂点から、襞の寄せられていた衣服がさらさらと解けた。
折り目の残る膝頭に、組み合わせられた両手のひらが添えられる。
まるきり同じ体勢で向き合って何が面白いというのか。対象図形ではあるまいに。
「あなたも、探偵さんが自分の思うとおりになっているのを、見ていたいんじゃないかと思っただけよ」
ヤコが我が輩の思い通りに?
当然だ。人形は主に従うから人形なのだ。それを主が欲するか否かは問題になるような事項ではない。
「ところで、僕の知る限り、先生は知り合ったばかりの女性を押し倒すほどの器量がある人間ではないはずですが、先刻のは一体どういうからくりなんです?」
「リズムとコードの組み合わせを少しいじってみたの」
「それが、何だと?」
「私の歌は、脳を揺さぶるけれど、揺さぶられた人間は歌っている人間、つまり私を求めるという回路を発生させるの。
そして、私のライブでは、何人もの失神者が出る。それは、性的興奮と全く無関係ではないわ。
いったい、曲のどの部分が興奮を引き出しているのかの分析が可能なら、組み合わせ次第で、催淫作用をもたらすことが出来るんじゃないかと思ったのよ。
聞いた人間が、歌っている私に対して性的興奮を覚え、私が欲しいと思う、そういった作用を起こすコード進行を試してみただけ」
「……あなたは、確かに素晴らしい能力をお持ちのようだ」
どうやら気を失ったらしく、ぐったりと椅子に沈み込んでいるヤコから手を離し、身体を起こすと、女――アヤ・エイジアが背中越しにそう声を掛けてきた。
予測済みの事態ではあるが、やはり、我が輩には気付いていたか。
それとも、先だってこのゾウリムシを『メインディッシュに仕立てる』などと言っていたときから、我が輩がこの場にいることを想定していたのか。
「やれやれ、敵いませんね。世界の歌姫は気配を読むのもお上手と見える」
「気配ではないわ。あなたがたお得意の推理、よ。
私が彼女に何か仕掛けるそぶりを見せれば、あなたは逐一観察してくるだろうと思った」
なるほど、後者だったらしい。まあ、どちらでもいいが。
椅子に沈んだままの奴隷人形のもとへ近寄ると、アヤ・エイジアの視界を遮るように腕を伸ばす。
「それで?」
片腕で抱き上げると、完全に力の抜けているのが判った。
これではナメクジそのものではないか。
「こんなものを」
どさりと応接用のソファに投げ下ろしても、固く閉じられたままの瞼は開かない。
先程の歌が何らかの催眠作用を呼び起こしているのは確かだが、これはいささか効き過ぎではないか?
「僕に見せて、どうしようと言うんです?」
横たわるヤコの身体の前に浅く腰をかけると、足を組み、膝の上で両手を組む。
滑稽だな。
かろうじて、言葉は助手の体裁を保ってはいるが、これでは、説得力は著しく低い。
「そうね」
アヤ・エイジアは、口元だけでにこりと笑みをかたちづくり、我が輩と向き合う形でソファに腰をおろした。
知らず形成されてしまった攻撃態勢が、後ろに横たわる、眼前に座る、どちらの女に引き出されたものかなど、疑問に思う時点で、滑稽だ。
「あなた、この事態をどう思う?」
「どう、とは?」
あまりにも要領を得ない謎欠けに、オウム返しに問い直す。
謎のかたちをとってはいるが、この女は所詮自分で仕掛けたゲームの回答を気持ちよくしゃべりたいだけだ。
適当に相槌を打ってしゃべらせておけば良さそうだ。
「私の歌の力については説明したでしょう?
私の歌は、ある特定の人の脳を直接揺さぶることができる」
「ええ、伺いました」
ヤコが持っていた円盤に収められた音も何種か聞いてみたが、同種、同パターンの波動をいくつか拾い出すことは出来ても、そのメカニズムを解明するには至らなかった。物質の分析ならばともかく、音となると、手のつけようがない。
「今までは、もともと『ひとりきり』だと感じている人間を対象に歌ってきたわ。けれど、最新のアルバムの製作が終わってから、ずっと考えていたことがあるの。
後天的に『ひとりきり』になった人間にも、私の歌は力を持つものなのか、とね」
そうして、すっと細めた視線をヤコの顔に向ける。
獲物を前にした獣の視線。なぶるように、舐めるように、ねっとりと絡みつく。
「探偵さんは、かわいいひとね」
「ウチの先生など、美しさにかけては、あなたの足元にも及ばないと思いますが?」
「外側の皮一枚の醜美なんてくだらないわよ。
素直で、明るくて、やさしくて。無防備に、すぐとなりの人間を信頼している」
粘着質だった視線が、我が輩の顔に載せられた途端、鋼の刃に姿を変えた。
「けれど、彼女の安定は、かなり危ういところで保たれているわね。
自己の存在が根幹から揺らぐような出来事に直面してから、まだ、あまり長い時が経っていないんじゃないかしら?
そして、それを支えているのは、たったひとりの人間」
我が輩は、人間ではないがな。
そして、たかだか人間の女ひとりが突きつけてくる刃の切っ先などに怯むほどの馬鹿でもない。まして、まともに斬りつけられるなど真っ平だ。
「だから、その信頼を揺るがすような出来事があれば、すぐに私の望む状態に堕ちてくれると思った。
彼女を、『ひとりきり』に加工してみたいと思ったのよ」
アヤの指が、自分の唇をなぞる。
この女、自分の目的のために我が輩を利用したと?
「おやおや、ずいぶん物騒なことをおっしゃいますね。
人間を加工するなどと、マッドサイエンティストかテロリストの物言いに聞こえますよ」
「そんなつもりはないわ。私はただ、自分の歌の可能性が見たいだけ。
それに、そうね」
もう一度ヤコに視線を落とすと、アヤは口元を歪めた。
それは、ヤコが何かしらの生ゴミを食す際に浮かべる芯からの笑みに似てはいた。ただ、ずっと、性的快感と近くにあり、我が輩がする表現としては甚だ不適当だが、禍々しい、笑みだった。
「探偵さんが『ひとりきり』になったところが見てみたかったのよ。
私の歌に堕ちてゆく彼女が、見たかった」
紅い舌が、ぺろりと唇にはう。
「思ったとおり、彼女は完璧なメインディッシュだったわ」
ぱぁん!
そのセリフを知覚した途端、奴と我が輩の間にガラスの破片が飛び散った。
応接用テーブルの上に載せられていた手のひらほどの小さな花瓶がこなごなに砕けて見る影もなくなっている。
「やあ、危ないな。お怪我はありませんでしたか?」
我が輩が差し伸べた腕をさかのぼるようにして、アヤが視線を突き入れてくる。
「何をしたのだか判らないけれど、助手さん。……あなた、同じ穴の狢って言葉、知っていて?」
ふわりと、微笑む。
オナジアナノ、ムジナ。
この間暇つぶしに読んだ広辞苑とやらに記述があった気がするな。
なるほど。我が輩と自分をひとくくりにする気か。人間風情が、生意気な。
「何がおっしゃりたいのやら、判りかねますね」
「そう?わりに頑固なのね」
向かいに揃えられていた細い足の片方が浮き上がるように動く。組まれた膝の頂点から、襞の寄せられていた衣服がさらさらと解けた。
折り目の残る膝頭に、組み合わせられた両手のひらが添えられる。
まるきり同じ体勢で向き合って何が面白いというのか。対象図形ではあるまいに。
「あなたも、探偵さんが自分の思うとおりになっているのを、見ていたいんじゃないかと思っただけよ」
ヤコが我が輩の思い通りに?
当然だ。人形は主に従うから人形なのだ。それを主が欲するか否かは問題になるような事項ではない。
「ところで、僕の知る限り、先生は知り合ったばかりの女性を押し倒すほどの器量がある人間ではないはずですが、先刻のは一体どういうからくりなんです?」
「リズムとコードの組み合わせを少しいじってみたの」
「それが、何だと?」
「私の歌は、脳を揺さぶるけれど、揺さぶられた人間は歌っている人間、つまり私を求めるという回路を発生させるの。
そして、私のライブでは、何人もの失神者が出る。それは、性的興奮と全く無関係ではないわ。
いったい、曲のどの部分が興奮を引き出しているのかの分析が可能なら、組み合わせ次第で、催淫作用をもたらすことが出来るんじゃないかと思ったのよ。
聞いた人間が、歌っている私に対して性的興奮を覚え、私が欲しいと思う、そういった作用を起こすコード進行を試してみただけ」
「……あなたは、確かに素晴らしい能力をお持ちのようだ」
作品名:4(ver.1.0).迎撃戦 作家名:さふらん