蛍の慟哭
深紅の天蓋と、どこか異国情緒が漂う寝具は未だそのままだった。ただし、いつもならうす暗くも、部屋を照らしていた蝋燭の灯は、今はもうない。
寝台の脇に置かれた天鵞絨張りの椅子には、この部屋の主だった人の寝巻が、無造作にかけられている。
あの人は、自分の持ち物に触れられるのが嫌いだった。必要以上に、他人の手を求めようとはせず、自分が許した人間以外には、近寄らせようともしなかった。不用意に近づけば斬る。そんな恐ろしさを、ためらいもせず露わにしていた。
ジョウイがこの部屋に召し出されたのは、前皇王アガレスを暗殺したその夜の事だった。嫌悪ではなく、不敵に笑ったあの人の顔を見て、理解した。ついに自分は、この人の「所有物」になったのだと。
その時の自分の喜びようを、あの人は理解していただろうか。ただの臣下であれば、あの人を欺くことなど出来ない。あの人の所有物とならなければ、あの人がわずかながらも気を許す存在とならなければ、自分の望みは達成されない。
この地を戦いの呪縛から解き放ち、リオウとナナミが、ハイランドへ戻って幸せに暮らす。そんな些細な望みさえ、叶えられない。
だから、自分は自分の意思や感情を犠牲にした。皇王アガレスを殺す秘策を与え、ようやくあの人のわずかながらの油断を引き出すことができたのだろう。そのために犠牲にした全てが、報われたのだから、これは喜ぶべき事だった。
今日、ハイランド史上、最悪とも言える暴君ルカ・ブライトは、夜の闇の中、葬り去られた。同盟軍の周到で執拗な攻撃にさらされ、さすがのあの人も、耐えきることはできなかった。
だというのに、嬉しくはないのはなぜだろう。この部屋には、自分の感情を基準にすれば、忌まわしい記憶しかないはずだった。それも、数日のうちにはきれいさっぱり闇に葬られることだろう。すがすがしく感じても何らおかしくはない。なのに、この寝台をに腰をおろしても、椅子に掛けられた寝巻を手にとっても、何の感慨も浮かばない。
仕組んだのは、自分だった。情報を流し、ルカを罠にはめた。だが、初めから自分はそのために、ルカ・ブライトを倒すそのためだけにハイランドに戻り、ルカに歩み寄ったのだ。だから、目的を達した今、自分が喜べないと言うのは、とてもおかしなことにしか思えない。
ルカを殺せば、得られると思ったものは、何もなかった。むしろ虚しさや喪失感が大きいような気もしていた。それからもっと良くわからない、感情とも言えない違和感が、心の奥底の大部分を占めていた。
なぜなのかがわからない。何かが物足りないのか、それとも他の理由からなのか。
寝台に背を預け、天蓋を見つめる。何かが足りないのとは少し違うような気がする。けれど、それに近い何かがくすぶっているのは間違いはない。ルカとの過去を思いだそうとする。記憶に浮かぶのは、この寝台で企んだ深い業か、自分自身の醜態だけだ。それはそれほど、重要ではない。
「なぜだろう」
言葉に出してみた。すると不意に何かが込み上げてきた。
こみ上げてきた物を押し込めようとした。気持ち悪さにも似た切迫感があった。これを吐き出してはいけない。この部屋の中でならなおさらだ。
部屋の外へと出ようとした。でも、廊下に出れば誰かにみつかるかもしれない。
バルコニーからつながる中庭なら、とそちらのガラス戸を開けた。そのとき、ふと、何かが手元で光り、通り過ぎた。
小さな明滅を繰り返しながら飛び去る光だった。
光が進む先を釣られて見やり、はっとした。
庭の中央にたたずむ白い人影があった。
即座に心臓が跳ね上がった。たくましい体つきを白い鎧で覆った姿はまぎれもなく。
「あ、っ」
心音が激しく、呼吸ができないほどに高まる。背筋を何とも言えない冷たい感覚が走り抜け、冷や汗のようなものが全身を濡らしていく。
これは恐れだろうか。
だが、あの人がこの場にいるはずがないのだ。絶対に。ルカ・ブライトは、この自分が殺したのだから。
「殺し、た」
いや、直接手を下したのは同盟軍だ。自分が殺したわけではない。けれど情報を流したのは自分だ。それならば、自分が殺したも同然ではないか。
だが、確証はなかった。あれほど手を尽くしても、あの人が大人しく倒れてくれるという保証など、どこにもなかった。
いや、それは言い訳だ。確証などなくても、自分がそれを望んでいたことに間違いはない。
そう、自分は望んでいた。ルカ・ブライトの死を。ならば達成できたのだからいいではないか。
いいはずだ。これでよかったはずなのだ。間違ってはいない。ルカ・ブライトの死は、自分にとって、この国にとって、この世界にとって、必要なことだった。
ならばなぜ自分は恐れると言うのだろう。自分がしたことは間違ってはいないのだとしたら、あれはもはや紛れもなくただの亡霊だ。幻でしかない。そんなものは、うち払ってしまえばいい。黒き刃の紋章で、切り裂いてしまえばい。
けれど、そう思えないのはなぜだろう。
焦りや不安、恐れの他に、違う感情がある。これは感情だ。荒れ狂うほどの感情だ。あまりに激しすぎて、自分でも理解できない、感情の渦だ。それは、胸の奥からこみ上げてくる。得体の知れない何かを、ジョウイは吐き出そうとした。
「ルカ、様……っ」
押し込めようとする意思と、さらけ出そうとする感情が同居した、切羽詰まった叫びがこぼれた。
呼ばれた相手が、その声に気づく。
その反応に、自分は心から安堵していた。なぜなのかと問うこともなく気付いた。自分は、会いたかったのだ。あの人に自分は焦がれていた。だから最期に、もう一度、ただ会いたかったのだ。そしてできることなら、赦されたかった。
ルカがジョウイを振り返る。
高なった鼓動こそ、喜びの証だった。
けれど、あの人が振り返り、見せた表情に、それは消え去った。
ルカ・ブライトの表情といえば、人間を切弄ぶ際に見せる狂気の顔か、不機嫌さを隠そうともしない苛立ちか、どちらかだった。なのに、ジョウイが見たのはそのどちらでもなく、見たこともないほどに穏やかな顔だった。
そして更に驚くことに、相手はジョウイの姿を認めた途端、笑った。どこか皮肉さが消えない笑みではあったが、確かに安らいだような、笑みだった。
その瞬間に降りてきたのは、ジョウイを押しつぶさんばかりにのしかかってきたのは、激しい後悔とも言える念。
なぜあの人はあんな安らいだ顔をするのか。自分の野望が潰えたはずなのに、死ぬことなど誰よりも望んではいなかったはずなのに、なぜあんな安らいだ顔を、自分に見せたのか。そして、なぜ自分があの人にそうさせたのか。
そして何より、なぜあの人はあの姿でこの世に存在してはくれないのか。
「あ、ああ……」
ルカ・ブライトを殺した。その事実が、今さらのようにジョウイに現実味を帯びて降りかかってくる。
いないのだ。あの人は。誰よりも憎く、誰よりも焦がれたあの人は。
寝台の脇に置かれた天鵞絨張りの椅子には、この部屋の主だった人の寝巻が、無造作にかけられている。
あの人は、自分の持ち物に触れられるのが嫌いだった。必要以上に、他人の手を求めようとはせず、自分が許した人間以外には、近寄らせようともしなかった。不用意に近づけば斬る。そんな恐ろしさを、ためらいもせず露わにしていた。
ジョウイがこの部屋に召し出されたのは、前皇王アガレスを暗殺したその夜の事だった。嫌悪ではなく、不敵に笑ったあの人の顔を見て、理解した。ついに自分は、この人の「所有物」になったのだと。
その時の自分の喜びようを、あの人は理解していただろうか。ただの臣下であれば、あの人を欺くことなど出来ない。あの人の所有物とならなければ、あの人がわずかながらも気を許す存在とならなければ、自分の望みは達成されない。
この地を戦いの呪縛から解き放ち、リオウとナナミが、ハイランドへ戻って幸せに暮らす。そんな些細な望みさえ、叶えられない。
だから、自分は自分の意思や感情を犠牲にした。皇王アガレスを殺す秘策を与え、ようやくあの人のわずかながらの油断を引き出すことができたのだろう。そのために犠牲にした全てが、報われたのだから、これは喜ぶべき事だった。
今日、ハイランド史上、最悪とも言える暴君ルカ・ブライトは、夜の闇の中、葬り去られた。同盟軍の周到で執拗な攻撃にさらされ、さすがのあの人も、耐えきることはできなかった。
だというのに、嬉しくはないのはなぜだろう。この部屋には、自分の感情を基準にすれば、忌まわしい記憶しかないはずだった。それも、数日のうちにはきれいさっぱり闇に葬られることだろう。すがすがしく感じても何らおかしくはない。なのに、この寝台をに腰をおろしても、椅子に掛けられた寝巻を手にとっても、何の感慨も浮かばない。
仕組んだのは、自分だった。情報を流し、ルカを罠にはめた。だが、初めから自分はそのために、ルカ・ブライトを倒すそのためだけにハイランドに戻り、ルカに歩み寄ったのだ。だから、目的を達した今、自分が喜べないと言うのは、とてもおかしなことにしか思えない。
ルカを殺せば、得られると思ったものは、何もなかった。むしろ虚しさや喪失感が大きいような気もしていた。それからもっと良くわからない、感情とも言えない違和感が、心の奥底の大部分を占めていた。
なぜなのかがわからない。何かが物足りないのか、それとも他の理由からなのか。
寝台に背を預け、天蓋を見つめる。何かが足りないのとは少し違うような気がする。けれど、それに近い何かがくすぶっているのは間違いはない。ルカとの過去を思いだそうとする。記憶に浮かぶのは、この寝台で企んだ深い業か、自分自身の醜態だけだ。それはそれほど、重要ではない。
「なぜだろう」
言葉に出してみた。すると不意に何かが込み上げてきた。
こみ上げてきた物を押し込めようとした。気持ち悪さにも似た切迫感があった。これを吐き出してはいけない。この部屋の中でならなおさらだ。
部屋の外へと出ようとした。でも、廊下に出れば誰かにみつかるかもしれない。
バルコニーからつながる中庭なら、とそちらのガラス戸を開けた。そのとき、ふと、何かが手元で光り、通り過ぎた。
小さな明滅を繰り返しながら飛び去る光だった。
光が進む先を釣られて見やり、はっとした。
庭の中央にたたずむ白い人影があった。
即座に心臓が跳ね上がった。たくましい体つきを白い鎧で覆った姿はまぎれもなく。
「あ、っ」
心音が激しく、呼吸ができないほどに高まる。背筋を何とも言えない冷たい感覚が走り抜け、冷や汗のようなものが全身を濡らしていく。
これは恐れだろうか。
だが、あの人がこの場にいるはずがないのだ。絶対に。ルカ・ブライトは、この自分が殺したのだから。
「殺し、た」
いや、直接手を下したのは同盟軍だ。自分が殺したわけではない。けれど情報を流したのは自分だ。それならば、自分が殺したも同然ではないか。
だが、確証はなかった。あれほど手を尽くしても、あの人が大人しく倒れてくれるという保証など、どこにもなかった。
いや、それは言い訳だ。確証などなくても、自分がそれを望んでいたことに間違いはない。
そう、自分は望んでいた。ルカ・ブライトの死を。ならば達成できたのだからいいではないか。
いいはずだ。これでよかったはずなのだ。間違ってはいない。ルカ・ブライトの死は、自分にとって、この国にとって、この世界にとって、必要なことだった。
ならばなぜ自分は恐れると言うのだろう。自分がしたことは間違ってはいないのだとしたら、あれはもはや紛れもなくただの亡霊だ。幻でしかない。そんなものは、うち払ってしまえばいい。黒き刃の紋章で、切り裂いてしまえばい。
けれど、そう思えないのはなぜだろう。
焦りや不安、恐れの他に、違う感情がある。これは感情だ。荒れ狂うほどの感情だ。あまりに激しすぎて、自分でも理解できない、感情の渦だ。それは、胸の奥からこみ上げてくる。得体の知れない何かを、ジョウイは吐き出そうとした。
「ルカ、様……っ」
押し込めようとする意思と、さらけ出そうとする感情が同居した、切羽詰まった叫びがこぼれた。
呼ばれた相手が、その声に気づく。
その反応に、自分は心から安堵していた。なぜなのかと問うこともなく気付いた。自分は、会いたかったのだ。あの人に自分は焦がれていた。だから最期に、もう一度、ただ会いたかったのだ。そしてできることなら、赦されたかった。
ルカがジョウイを振り返る。
高なった鼓動こそ、喜びの証だった。
けれど、あの人が振り返り、見せた表情に、それは消え去った。
ルカ・ブライトの表情といえば、人間を切弄ぶ際に見せる狂気の顔か、不機嫌さを隠そうともしない苛立ちか、どちらかだった。なのに、ジョウイが見たのはそのどちらでもなく、見たこともないほどに穏やかな顔だった。
そして更に驚くことに、相手はジョウイの姿を認めた途端、笑った。どこか皮肉さが消えない笑みではあったが、確かに安らいだような、笑みだった。
その瞬間に降りてきたのは、ジョウイを押しつぶさんばかりにのしかかってきたのは、激しい後悔とも言える念。
なぜあの人はあんな安らいだ顔をするのか。自分の野望が潰えたはずなのに、死ぬことなど誰よりも望んではいなかったはずなのに、なぜあんな安らいだ顔を、自分に見せたのか。そして、なぜ自分があの人にそうさせたのか。
そして何より、なぜあの人はあの姿でこの世に存在してはくれないのか。
「あ、ああ……」
ルカ・ブライトを殺した。その事実が、今さらのようにジョウイに現実味を帯びて降りかかってくる。
いないのだ。あの人は。誰よりも憎く、誰よりも焦がれたあの人は。