反転しない真実
毎日毎日借金取りに追われる僕としては、師匠に惚れ込む女性のことは皆宿を提供してくれる人たちとしか思えなかった。あの最悪な性格の師匠にどうして惚れてしまうのか本当に謎だったが、彼女らの家にいるときだけが借金取りに追われる心配のない、安らげる時間だった。もちろん毎度毎度師匠は僕を女性の家に連れていってくれるわけではないが、食事も寝る場所も保障してくれるというのは本当にありがたかった。逆に言えば、それだけとしか思えなかったのだが。
そして今回は街で一番の豪邸に住むという女性がお相手らしい。何度も言うようだが、僕には師匠の魅力は一粒たりともわからない。だけど、行く先々で女性を虜にする師匠の謎の魅力に感謝していたりもする。今日は温かいベッドで寝られるかもと期待していた――のに、女性に会った途端、師匠はなんと非情なことに僕に帰れと命令する。もう家はすぐ目の前だというのに!
「いいから帰れ。邪魔だ」
「ひ、酷い!僕がどれだけこの家を待ち望んでたことか!」
「知るか、んなもん」
「今から宿をとる力なんか残っていませんよお!」
「そのへんで寝りゃいい」
「ここまで来て野宿はいやです!せめて、一泊だけでいいですから!!」
おいおいと涙を流して師匠に請う。もちろん師匠にそんな演技が通用するはずがない。しかし、それを見ていた女主人はいたいけな僕の姿に同情してくれたようだ。栗色の髪に透き通った緑の瞳を持った女性の言葉添えのおかげで、師匠はしぶしぶ僕が泊まることを許した。いつになくしかめっ面の師匠が気にはなるが、食事とベッドにありつけた僕としては師匠のことなどどうでもいい。出された食事を綺麗に完食して、早々に寝床に入った。
おい、アレンと早朝に呼ばれて重たい目蓋を開ける。別の部屋で寝ていたはずの師匠が、もうすでに身支度を終えて僕のベッドに座っている。どこいくんですか、とうまく舌の回らない口で尋ねた。
「ちょっと出かける。お前は寝てていい」
「はーい、ししょー」
「ただ、あいつに気をつけろよ」
「あい、つ・・・?って、だれですかー?」
「あいつはあいつだ」
いやいやそれ答えになってないって。問い返す前に師匠は僕の額にキスをして出て行った。ぼーっとしていた僕は、それからはっと目が覚めて急いで額をごしごしこすった。
身なりを整えて部屋を出ると、女主人がああ、起きたのねと優しい顔で笑った。「今起こしに行こうと思ってたのよ。よく眠れたかしら?」気遣いの言葉に、僕は父親直伝の紳士スマイルでイエスと返す。
「朝食を用意してあるのよ。食べながらお話でもしないかしら?ほら、昨夜はちゃんとお話できなかったし」
断る理由なんかどこにもない。喜んで女主人についていった。
「クロス様は今朝早く出て行ってしまったみたいなの。いつのまにかベッドにいないのよ」
「師匠は自分勝手ですからね」
テーブルにはできたての朝食が並んでいる。とても彩り鮮やかで、まるで絵画のような食事だ。――ちょっと量が少ないと思ったけれど、親切にも泊まらせてくれてこうやって朝食も出してくれるのだ。ちゃんと僕の頭の中には、「遠慮」という言葉が入っている。
「そうね、クロス様は本当に自由奔放。……でもそんなところにも惚れてしまってるから」
そう言って、幸せそうに笑う。しかし、自由奔放とはよく言ったものだ。これまでの経験上、女の人は総じて師匠の自己中心的なところに弱い。振り回される僕としては勘弁してほしいぐらいで、どうして師匠の自分勝手なところが魅力になるのかわからないのに。
僕の心の内がわかったのか、女主人はくすっと笑った。
「まだあなたにはわからないかもしれないわね。お弟子さんなんでしょう?」
「はあ、まあ」
「いつも隣にいるのね、きっと。こういうのは近くにいればいるほど、わからないものなのよ」
そしてあなたが羨ましいと言われる。何がいいものかと憤慨したいが、女性の目がだんだんとうっとりしたものに変わってきている。なんだか色っぽくて、なんていうか――そう艶やかだ。ゆったりと微笑まれたときには、背筋がぞくっとなったものだ。
「ねえ、お弟子さん」
「は、い」
女主人は椅子から立って、ゆっくりこちらに近づいてくる。僕の隣の椅子に座ったときには、思わず食べる手を止めてしまった。
「きっとクロス様はこの街での用事が済めば、すぐに私のことなんて忘れてどこかへ行ってしまうわ。私はそれがいやなの」
「でも、師匠はそういう人ですよ」
「そうね。・・・・・・でも、じゃあこの街にいなければいけない理由をつくればいいんじゃないかしら」
迫ってくる緑色の瞳を逸らせない。これはやばい。女主人の白くて綺麗な手が伸びてきて、僕の喉元にそっと添える。そのまま緩く抑えてくる。それだけで僕はもう逃げられない。
「私、以前にもクロス様と付き合ったことがあるのよ。けれど、クロス様はすぐ行ってしまった。私はなんとしてでもクロス様がほしい。だからわざわざ顔を変えて、この街でクロス様を待っていたのよ。なのに、また簡単に出て行くなんてだめ。繋ぎ止めておかなきゃ」
「あ・・・う、ぅ」
「クロス様の隣にいるあなたを見て、本当に心底羨ましいと思ったのよ。クロス様が隣にだれかいることを許すなんて。きっとあなたはクロス様にとって大事な人なのね」
大事な人?まさか!的外れな推測に鼻で笑ってやりたかったが、どんどん息がしづらくなってきているこの状況でそんな余裕はなかった。苦しい。とにかく苦しい。
「だからきっとあなたがこの街で行方不明になったら、クロス様はこの街にいてくれる。きっと私の傍にいてくれるのよ!」
ぎゅっとさらに強い力で掴まれた瞬間、僕の身体は崩れ落ちた。けほ、と咳をしながら女主人の顔を見ると、彼女の顔は絶望の色に染まっている。泣き出してしまいそうなほどだ。ふと落ちる影に気づき、振り向けば当たり前のように師匠が立っていた。
「だから気をつけろと言っただろ」
「けほっ。そん、なの無理、ですよっ!ていうか、師匠、この女性のこと気づいてたんですか?」
愚問だなと鼻で笑われた。かっこいいけどむかつく。
師匠はそれから行くぞとだけ言った。よろよろと立ち上がって、僕はうな垂れている女性を振り返った。師匠はもう興味はないとさっさと行ってしまっていた。
「師匠は・・・・・・僕のことなんかどうでもいいんですよ。だから、もし僕があなたに殺されていても、師匠はあなたを置いていったと思いますよ」
でも師匠だって鬼じゃなかった。
「よかったですね、僕を殺す前に師匠が助けてくれて。あなたに罪は背負わしたくなかったんですよ、きっと」
これは嘘だ。でもこの嘘で、少しは女主人の気持ちが晴れるかもしれない、多分。
そして今回は街で一番の豪邸に住むという女性がお相手らしい。何度も言うようだが、僕には師匠の魅力は一粒たりともわからない。だけど、行く先々で女性を虜にする師匠の謎の魅力に感謝していたりもする。今日は温かいベッドで寝られるかもと期待していた――のに、女性に会った途端、師匠はなんと非情なことに僕に帰れと命令する。もう家はすぐ目の前だというのに!
「いいから帰れ。邪魔だ」
「ひ、酷い!僕がどれだけこの家を待ち望んでたことか!」
「知るか、んなもん」
「今から宿をとる力なんか残っていませんよお!」
「そのへんで寝りゃいい」
「ここまで来て野宿はいやです!せめて、一泊だけでいいですから!!」
おいおいと涙を流して師匠に請う。もちろん師匠にそんな演技が通用するはずがない。しかし、それを見ていた女主人はいたいけな僕の姿に同情してくれたようだ。栗色の髪に透き通った緑の瞳を持った女性の言葉添えのおかげで、師匠はしぶしぶ僕が泊まることを許した。いつになくしかめっ面の師匠が気にはなるが、食事とベッドにありつけた僕としては師匠のことなどどうでもいい。出された食事を綺麗に完食して、早々に寝床に入った。
おい、アレンと早朝に呼ばれて重たい目蓋を開ける。別の部屋で寝ていたはずの師匠が、もうすでに身支度を終えて僕のベッドに座っている。どこいくんですか、とうまく舌の回らない口で尋ねた。
「ちょっと出かける。お前は寝てていい」
「はーい、ししょー」
「ただ、あいつに気をつけろよ」
「あい、つ・・・?って、だれですかー?」
「あいつはあいつだ」
いやいやそれ答えになってないって。問い返す前に師匠は僕の額にキスをして出て行った。ぼーっとしていた僕は、それからはっと目が覚めて急いで額をごしごしこすった。
身なりを整えて部屋を出ると、女主人がああ、起きたのねと優しい顔で笑った。「今起こしに行こうと思ってたのよ。よく眠れたかしら?」気遣いの言葉に、僕は父親直伝の紳士スマイルでイエスと返す。
「朝食を用意してあるのよ。食べながらお話でもしないかしら?ほら、昨夜はちゃんとお話できなかったし」
断る理由なんかどこにもない。喜んで女主人についていった。
「クロス様は今朝早く出て行ってしまったみたいなの。いつのまにかベッドにいないのよ」
「師匠は自分勝手ですからね」
テーブルにはできたての朝食が並んでいる。とても彩り鮮やかで、まるで絵画のような食事だ。――ちょっと量が少ないと思ったけれど、親切にも泊まらせてくれてこうやって朝食も出してくれるのだ。ちゃんと僕の頭の中には、「遠慮」という言葉が入っている。
「そうね、クロス様は本当に自由奔放。……でもそんなところにも惚れてしまってるから」
そう言って、幸せそうに笑う。しかし、自由奔放とはよく言ったものだ。これまでの経験上、女の人は総じて師匠の自己中心的なところに弱い。振り回される僕としては勘弁してほしいぐらいで、どうして師匠の自分勝手なところが魅力になるのかわからないのに。
僕の心の内がわかったのか、女主人はくすっと笑った。
「まだあなたにはわからないかもしれないわね。お弟子さんなんでしょう?」
「はあ、まあ」
「いつも隣にいるのね、きっと。こういうのは近くにいればいるほど、わからないものなのよ」
そしてあなたが羨ましいと言われる。何がいいものかと憤慨したいが、女性の目がだんだんとうっとりしたものに変わってきている。なんだか色っぽくて、なんていうか――そう艶やかだ。ゆったりと微笑まれたときには、背筋がぞくっとなったものだ。
「ねえ、お弟子さん」
「は、い」
女主人は椅子から立って、ゆっくりこちらに近づいてくる。僕の隣の椅子に座ったときには、思わず食べる手を止めてしまった。
「きっとクロス様はこの街での用事が済めば、すぐに私のことなんて忘れてどこかへ行ってしまうわ。私はそれがいやなの」
「でも、師匠はそういう人ですよ」
「そうね。・・・・・・でも、じゃあこの街にいなければいけない理由をつくればいいんじゃないかしら」
迫ってくる緑色の瞳を逸らせない。これはやばい。女主人の白くて綺麗な手が伸びてきて、僕の喉元にそっと添える。そのまま緩く抑えてくる。それだけで僕はもう逃げられない。
「私、以前にもクロス様と付き合ったことがあるのよ。けれど、クロス様はすぐ行ってしまった。私はなんとしてでもクロス様がほしい。だからわざわざ顔を変えて、この街でクロス様を待っていたのよ。なのに、また簡単に出て行くなんてだめ。繋ぎ止めておかなきゃ」
「あ・・・う、ぅ」
「クロス様の隣にいるあなたを見て、本当に心底羨ましいと思ったのよ。クロス様が隣にだれかいることを許すなんて。きっとあなたはクロス様にとって大事な人なのね」
大事な人?まさか!的外れな推測に鼻で笑ってやりたかったが、どんどん息がしづらくなってきているこの状況でそんな余裕はなかった。苦しい。とにかく苦しい。
「だからきっとあなたがこの街で行方不明になったら、クロス様はこの街にいてくれる。きっと私の傍にいてくれるのよ!」
ぎゅっとさらに強い力で掴まれた瞬間、僕の身体は崩れ落ちた。けほ、と咳をしながら女主人の顔を見ると、彼女の顔は絶望の色に染まっている。泣き出してしまいそうなほどだ。ふと落ちる影に気づき、振り向けば当たり前のように師匠が立っていた。
「だから気をつけろと言っただろ」
「けほっ。そん、なの無理、ですよっ!ていうか、師匠、この女性のこと気づいてたんですか?」
愚問だなと鼻で笑われた。かっこいいけどむかつく。
師匠はそれから行くぞとだけ言った。よろよろと立ち上がって、僕はうな垂れている女性を振り返った。師匠はもう興味はないとさっさと行ってしまっていた。
「師匠は・・・・・・僕のことなんかどうでもいいんですよ。だから、もし僕があなたに殺されていても、師匠はあなたを置いていったと思いますよ」
でも師匠だって鬼じゃなかった。
「よかったですね、僕を殺す前に師匠が助けてくれて。あなたに罪は背負わしたくなかったんですよ、きっと」
これは嘘だ。でもこの嘘で、少しは女主人の気持ちが晴れるかもしれない、多分。