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彗クロ 4

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 女の、黄金色の睫がぱちぱちと上下して、ゆるやかな呼気とともに桜色の口元が清純にして魅惑の弧を描いた。とたん、レグルの脳内は理性とパニックのおしくらまんじゅうでぎゅうぎゅうになった。わけがわからない。
「まあ、わたくしったらこんなに立派な殿方になんて失礼を。不躾な態度をお詫び申し上げますわ」
「え、あ、うん――じゃねっ、お、おう」
「ご寛恕痛み入ります。ふふふ、思っていたより可愛らしい方ですわねぇ」
「なんっっっっも反省してねーじゃねーか!!」
「いやですわ、褒め言葉ですのに」
 女は口元に手を添えてころころと笑う。
 ――上流階級。見慣れぬ仕草にそんな言葉がひらめき、浮ついていた心臓へと冷水が注がれるのを感じた。
 警戒心がむくむくと膨れ上がり、発作的に前頭部のドクロを両手で掴む。アゲイトの用意した黒色のバンダナは、正面にドクロのコミカルな嘲笑がでかでかと描かれている。デザインに関しては実にレグルの好みを絶妙に突いたチョイスではあるが……あらかじめ注文をつけておくべきだったと、レグルは下唇を噛んだ。コーラル城以来愛用してきたバンダナ同様、特徴的すぎる癖っ毛を隠しきるにはあまりに寸足らずなのだ。
 ここが敵地だということを、忘れてはいない。いやうっかりと気を抜きまくっていたこともないこともないが……そもそも最近、髪を隠す習慣自体ちょっと忘れていた感が否めないでもないが……いやしかし、そう、一応これでも、ケセドニアで当座の目的地を定めた時から、相応の覚悟を決めてバチカルを目指してきたのだ。
 実際に実物を目の前にした興奮に蹴り出されて吹っ飛んでいた警戒心を、ここぞとかき集める。キムラスカは敵地。バチカルは敵の居城。バチカルの王族貴族どもはルークを食い物にしようとした敵。やつらはルークを――赤毛のレプリカを捜している……
 あからさまに態度を翻した「坊や」をどう思ったか、いかにもやんごとない上流階級と思しき女の表情が、ふと揺らいだ気がした。見下ろす視線がわずかに伏し目になって、ただまばたきのために動いているはずの睫が、奇妙に悲哀に満ちた艶を帯びたような――
 ――にっこり。本当にそんな音でも聞こえてきそうな模範的すぎる笑顔が、一瞬前の印象を完全に押し流した。あっけにとられるレグルの前で、茶目っ気たっぷりに打ち合わされたたおやかな両手が、桜色の口元にきゅっと引き寄せられる。
「そんな素敵な殿方を見込んで、実はお願いがございますの。聞いてくださいます?」
「おねっ、お、おねがっ!?」
 ありふれた単語がなんでかとんでもなくいかがわしい響きに聞こえて、返す言葉がひっくり返った。経験のない高鳴りに、たちまち血液が沸騰する。心臓から首筋を伝って耳元まで、見えない熱湯がぐいーんと水位を上げていく。
 レグルの狼狽なぞ知りもしない様子で、女の笑みは美しく、透明だ。
「ええ。ご覧の通り、わたくしもいま一人なんですの。せっかくのお祭りだというのに、約束していた相手にすっぽかされてしまいまして……」
「そっそれがおれになんのカンケーがっ!?」
「……かといって、他の知り合いに代打を頼んではいらぬ角が立ちますし、おとなしく城――ではなく家に閉じこもるのも性分ではありませんし……何より」
 繊細なレースを纏う手が優雅に翻る。いったいどこから取り出したやら、横長の派手な紙片が二枚、女の指先で風に泳いだ。
 インパクト重視の字体の明瞭な印字は、さすがのレグルにも読み取れる。合理性を蹂躙する熱に別種の興奮が加勢し、あっけなく臨界突破した。もう、脳内バラ色だ。
「闘技場のチケット!?」
「主賓席真下の、ベストポジションでしてよ」
 ね? と、女はあざとく首を傾げ、片目をぱっちりつむってみせる。……駄目押しである。
「無駄にしてしまうのは、もったいないと思いませんこと?」
「――思うッ!!」
 キラキラ全開、元気いっぱいの即答が弾けた。生まれて初めてレグルの思考からルークの存在がごっそり抜け落ちた瞬間であった。
 一拍のち、我に返るも時すでに遅し。目の前にあるのは、勝利の笑顔だ。
 正気など取り戻させぬとばかり、いつの間にか肩の前で握り拳を作っていたレグルの手を、女は強引に握りしめた。その体温の生々しさにレグルの心臓は簡単に跳ね上がったわけで、効果は抜群である。
「なっ」
「そうと決まれば善は急げですわ! 今宵はたっぷりと楽しみましょう?」
 是非を返す隙もなく手を引かれる。ワンピースの裾が軽やかに翻り、いたずらっぽい笑顔は帽子のつばの向こうへ。小走りになる後ろ姿が可憐で、ほんのちょっぴり艶めかしい。
「おっおいおおおおま……っ」
「メリルとお呼びくださいなっ。そういえばお名前、聞いてませんでしたわねぇっ?」
「――だあああああもう、レグルだよコンチクショー!!」
 流されるまま地面を蹴りつけ人波をかきわけながら、レグルは真っ赤になって事実上の敗北宣言を叫ぶのだった。

 時刻は斜陽。陽の光を浴びるすべてのものが、淡くも枯れたほむら色を帯びる逢う魔が時。
 狂騒の一夜が、幕を開けようとしていた。

作品名:彗クロ 4 作家名:朝脱走犯