彗クロ 4
4-4
「…………………………。」
人ごみのど真ん中で手元の暗がりを覗き込み、レグルはまんじりとした眼差しで立ち尽くしてしていた。こめかみを動かす気力すら湧いてない。
部屋を出て一刻と過ぎていない。フローリアンとの追いかけっこは、ホテルのロビーに降りた時点で早々に勝敗が決していた。いったん部屋に引き返したわずかな間が致命的だったのは間違いない。完全に撒かれたという事実が屈辱すぎて、勢い空中滑車に乗り込み街中を血眼で見下ろしても見たが、結局発見することができなかった。おかげで空中散歩を楽しむどころではない。
お互い、はなからくっついて祭りを回るつもりなど微塵もなかったわけで、はぐれたところでどうということもないが、いかんせんこの黒星は脇腹にくるものがある。さりとて、不案内な土地で経験のない量の人波から出会って数日の人間を捜索することの無謀さは、レグルの気力をあっという間に減退させた。意地を張るのも馬鹿馬鹿しくなって、適当な露店で小腹でも満たそうかと、財布を確かめるべくアゲイトから渡された「荷」を開けた瞬間、冒頭の沈黙に繋がる。
……ヤツの服選びのセンスはたいしたものだった。新品のバンダナ初めアクセサリー系のオプションに関しても、見事にレグルの嗜好を突いていた。であるがゆえに、これは明らかな嫌がらせに違いない。
頭からつま先までビシッとシャープにコーディネートされた十三歳男子、なにが悲しくてまっ黄色な幼児向けの肩掛けポシェット(火の玉模様アップリケ入り)を持ち歩かなければならないのか。すっかり忘れていた理不尽をふつふつと噛みしめながらチャックを開けば、これまた可愛らしいリボンで括られた包み紙が二つ、甘い匂いを漂わせながら顔を覗かせたとあって、思考停止を余儀なくされたレグルの心境には十二分に同情の余地があろう。
いっそ地面に叩きつけてやりたい衝動と一気に萎えた食欲ごと、震える指でチャックを下ろして封印し、瘴気の如きため息を吐き下ろす。……約二名、報復が必要だ。なんとかその場での癇癪をやり過ごして、レグルは濁った目つきで屈辱を脳裏に刻みつけた。
ここが敵地だということは忘れていない。昨日の今日で馬鹿を繰り返すのも勘弁したい。感情を制御できているかは怪しいが、少なくとも意地は仕事をしている。一朝一夕には賢くはなれないが、感情と肉体の直結回路に割り込みをかける訓練ぐらいはしておかねば、ルークを失望させてしまう。
ふと思い至って、再びポシェットに視線を落とした。中身を再確認する気にはなれないが、包み紙は確か二つあったはず。内容物にも見当はつく。正直いらない……が、ルークは違うかもしれない。コーラル城からこちら、この手の嗜好品はほとんど口にしていないはずだ。手違いか何かでこちらに紛れ込んだのだとすると、いい匂いがしているうちに届けてやったほうがいいかもしれない。そう思うと、妙に心が浮き立つのを感じた。この際フローリアンの取り分かもしれないという可能性は思考するだけ無意味なので丸めて放り投げておく。
「……ん。ひとりでまわってもつまんねーし、起こしにいこ」
ちょっとばかり気持ちが浮つきすぎたか、その声は大きすぎた気がしないでもない。
「――あら。貴方、お一人でして?」
糖蜜のような声がした。
明らかに自分を指向する問いかけに、レグルは大きく肩を跳ね上げた。一瞬、悪寒に似た電撃が尾骨から頸椎を疾走した気がする……
(なんだ、いまの)
レグルは飼い主にいたずらを見咎められた愛犬よろしく、首をすくめたまま、そろりと呼ばわれたほうを振り向いた。まばゆい白さが視界に焼き付く。
猫の目のような緑の瞳が、レグルを映して細められた。
***
「……セシル将軍?」
昇降機の緩やかな下降に下層へと引き寄せられながら、ルークはぽつりと怪訝な呟きを落とした。高層階で別れたばかりのはずの人物が、格子の向こうの眼下に見えた気がしたのだ。清楚なワンピースと大仰な庇の帽子。……と、黒と白と赤の……ドクロマーク……?
目を凝らす間もなく視界は無骨な鉄骨に阻まれた。無粋な無機物が過ぎ去るのを待って再び広場を一望するが、大量の人波から同じ人物を見つけ出すことはどうも難しそうだ。
一瞬の、支離滅裂に散逸した印象が妙に引っかかったが、しかしどう考えても別人だろうと、ルークはゆるくかぶりを振った。彼女は屋敷に帰ったはずだ。彼女と別れたその場で父のもとに直帰する義務を投げ捨て下層行きの昇降機に乗り込んだルークを、先回りできる道理もない。
……明確な目的があるわけではない、何にぶち当たるともわからない、そんな捜し物をするのはいつ以来だろうか。鉄柵に背をもたせながら、ルークは気だるく物思う。半分は閉息した状況からの現実逃避、身勝手な息抜きだ。この一年、克己的にありすぎた反動かもしれない。……コーラル城以来、異常に気が滅入るのだ。心が発散を欲している。本当の意味で鬱積を晴らす方法など、きっとありはしないのに。
きつく瞼を引き下ろし、不完全な闇を網膜に呼び込む。せめて昇降機が挙動を終えるその瞬間までは、なにもかもから目をそらしていたかった。
***
……女、だ。当たり前だけれども、それは女だった。
丸くて大きな帽子も、透ける素材のショールも、ふんわりと柔らかなワンピースも、繊細な細工のミュールも、すべてが清純さを前面に打ち出した白一色。ともすれば味気なく感じるほどの純白に、明るい色の髪と瞳、無垢のようでいてどこか小生意気そうな顔立ちとが色を添えて、どことなしにちらほら婀娜っぽい。
反射的にカーラを思い出し、しかしまったく別人だと、レグルは自分の短絡思考を必死に追っ払った。歳が違う、姿が違う、顔立ちも表情も雰囲気も違う、というか声からしてまるで違う。なのになぜ連想したのか、自分でもよくわからない。
ただこれだけは確かだ。女性に対して、こんな、恐怖心に似た感情を抱いたことは、いまだかつてない。いや、木刀で殴りつけてくる中年おばさんははっきり言ってめちゃくちゃ怖かったが……そうではない、そういう恐ろしさではないのだ。なんというかこう……心臓の表面がむずむずするような……
冷や汗たらして黙りこくるレグルの様子に、女がきょとんとして首を傾ける。白い帽子の円形に張り出した庇の下で、蜂蜜色の巻き毛がふわりと瑞々しい頬にかかる。聞いていた話と違いますわねぇ。形のよい唇がなめらかに上下する。ただそれだけのことで耳の中で血の流れる音がどかどかとやかましく木霊して、レグルのただでさえ察しの悪い脳みそは、聞き捨てならなざるはずの言葉の羅列から意味を汲み取ることができない。
「口がきけないわけではないでしょう? それともわたくしの言葉がわかりませんの、坊や?」
「ぼっ、坊――!?」
混乱渦巻く思考を反骨精神がおもいきり蹴っ飛ばした。鼓動はうるさいままだし、反射的な怒りにいっそう頭に血が上るばかりで眩暈すら覚える始末だったが、歯を食いしばってなんとか耐えた。中傷には敢然と反論せずには気が済まない。
「ガキ扱いすんな! なんなのおまえ!?」
……語尾が思うさま上擦った気がするが、気のせいだ気のせいに違いない。