彗クロ 4
「ま、いい加減慣れたがね。実際、大事にならないとも限らないし、俺としても不確定要素はなるべく取り除いておくべきだとは思ってる。それでだ。せめて『メティスラヴィリ』という名前の意味だけでもわかれば、多少の突破口になるかと思っているわけなんだが……」
含みを込めてナタリアを見やると、猫の目を思わせる緑色の瞳が大きく見開かれ、次いで、呆れきった半眼を形作った。
「……そういうことですの」
「た、頼めない、かな?」
恐る恐る伺いを立ててみれば、今度は強烈な嘆息を返却された。すっかりと、いつものナタリアである。
そうですわねぇ、などとうそぶきながら、ナタリアはそ知らぬ顔でくるりと踵を返し、実に明快な滑舌で『独白』を始める。
「なんとも興味深いお話を聞きましたわ。メティスラヴィリという人物、実にわたくし好みのミステリーです。『レグル・フレッツェン』に関してキムラスカは公には動けませんが、わたくし個人の好奇心を満たすための私的な調べ物にまで口を出されるいわれもありませんわね。ええ、我が国の戸籍や出入国者の帳簿を、この国の為政者たるわたくしが、気まぐれに見返してみたところでなんの咎がありましょうか。偶さかメティスラヴィリかそれに準ずる氏名を見つけることができれば、それはそれで儲けもの。もちろん、結果をマルクトに報告して差し上げる義理などございませんが、そうですわね、こうしてガイや元大佐にお会いした際には、話の花を咲かせるための一助として用いるのも、やぶさかではない……かもしれませんわ」
「あー。ええと……」
「そうそう、古代イスパニア語やホドに関する知識といったら、なんといってもユリアシティですわね! ああけれど、『彼女』に事の仔細を説明するのは気が咎めますわ。テオドーロ市長の心遣いを無に帰してしまうやも。まかり間違って、普段は音沙汰乏しいマルクト側から突如かような依頼が持ち込まれれば、勘の良い彼女のことです、隠しておきたいこともあっという間に看破されてしまうことでしょう。これだから殿方は、細やかな気遣いに欠けるというのですわ。その点わたくしならば、日ごろ文のやりとりを欠かしたことはありませんし、お互いに多忙な政務の合間を縫ってお茶会に招き招かれする間柄です。例のレプリカのことなどおくびにも出さず、個人的な知的好奇心にまつわる相談事をさりげなく持ちかけることなど造作もありません。あら、よくよく考えてみれば、これはマルクトを出し抜ける絶好の機会なのではなくて!? ――そうは思いませんこと、ガルディオス伯爵?」
「……大変結構な妙策でいらっしゃるかと。ぜひともあやからせていただきたいぐらいに」
「それは、手土産の内容次第ですわねぇ」
ちら、といたずらっぽく流し目。
誘導した結果とはいえ、もはや再訪を確約させられたも同然の話の流れに、ガイは苦笑をしつつ降参とばかりに手を上げた。
マルクト皇帝の意趣返しは、究極的にはただ一名、ファブレ子爵のみをこの件から一切手を引かせることを主眼としている。体裁の問題上、キムラスカ王室全体にペナルティを課さざるをえなかったわけだが、あくまで表向きの話だ。法の網の目をかいくぐるがごとく、都合のいいもので、何事にも例外は存在するものである。
「では、前払いとしてひとつ、最新最速の情報を提供させていただきましょう」
元気よく振り返るナタリアの瞳は率直な期待にきらきらと輝いている。……こんな顔を俺に引き出させるとは何事だ。目の前の幼馴染のために、ガイはもう一人の友人へと悪態をつかずにはいられない。
「実は今、このバチカルの城下にちょっと面白い連中が立ち寄っているらしいんだが――君のフィアンセだけ面識があるっていうのは、不公平だと思わないかい?」
***
荘厳な建築物を混沌と積み重ねた大山がひとつ、遥か雲を割って晴天に聳え立っている。
街へと続く大橋の入り口ど真ん中で、ぱっかりと口を開けてそれを見上げる少年が一人。昨今珍しいほどの模範的な驚愕っぷりに、物馴れた通行人たちは皆、微笑ましげに失笑を零していく。
なにせ目立つ子供だったのだ。田舎臭さは多少あれど、快活で素直な性根が窺える顔立ちに、個性的な癖毛の頭髪がひどく鮮やか。陽光を受けて惜しみなく輝く金色は内外に人気の高いキムラスカ王女を、毛先に至るほどに色濃い諧調を描くほむら色の光沢は、先年王女との婚約を正式に発表した奇跡の英雄を象徴しているようで、実に実におめでたい。
キムラスカ王国首都バチカルは、大昔の譜石の落下痕の中央部に築かれた、世界的にも稀な形状の都市である。海に面した部分を底辺として小高い丘を鋭く抉った逆三角形の大亀裂は、首都を守護する天然の要衝となっている。
正門である内陸南の頂点から、内心に聳え立つ譜業の街へと向かうには、長大な石橋を徒歩で渡らなければならない。結構なスリルを提供してくれる空中散歩の左右で、途方もない歳月の累積をむき出しにした岩肌が、垂直と紙一重の恐ろしい急斜面を成して、暗く霞む地の底へと吸い込まれていく。
魂までも引きずり込むような雄大な光景を遠慮なくぶった切って、中央部に君臨する巨大な立体都市の迫力ときたら、一目見た者の心の中にどっかりと鎮座して憚らない。建築家と譜業職人と鳶工と左官と、そのほか数多の労働者が、膨大な年月と心血とを好き勝手に注いだ壮大なる積み木遊びの賜物。壁材は精緻に切り出した天然の岩石。譜業は階層ごとに用途も年代も形式もさまざまで、あたかも博覧会の様相だ。個性豊かな混沌の重層が、各所に奔放な凹凸や不均衡を隠さぬまま、しかし全体は卵の殻に似た山型に調和する。実に職人好み、好事家好みのする造形物である。
いたるところから時折噴出す蒸気の音が小気味よく、あちこちで何が何やらわからぬ譜業がガシャガシャゴトゴト、レトロな駆動を連鎖させているのが、遠目にもわかる。都市を取り巻くように張り巡らされたワイヤーを手繰り、優雅に行き来する空中滑車は、バチカルを象徴付ける最たるもの。
少年の冒険心もさぞやくすぐられたことであろう。赤金色の子供は止めていた息を固唾とともに飲み下し、最も天高いところを上昇していくゴンドラを指差し、上気した顔で保護者らしき人物を振り返った。
「――財布! あれ乗りたいっ!」
「扱いがどんどんひどくなってるなぁ」
柔和に苦笑しつつ応じた青年は、そこそこ常連の旅商だった。顔立ちこそは女性に好まれる類の色男ではあるが、この最大の特徴を人畜無害すぎる人となりが薄めているようなきらいがあり、外見よりもその好青年ぶりで他者の印象に残る人物である。珍しく子供連れとあって、橋の入り口の衛兵に「いつから人身売買にまで手を染めたんだ?」と冗談交じりに絡まれる程度には、信用のある薬売りだ。
ここに成長期真っ盛りと思しき緑髪のひょろ長い少年も加わり、ボクもボクもと元気いっぱい騒ぎ立てた。おかげで、青年の傍に控える物静かなもう一人の子供の姿に、注意を払うものは誰もいない。
「はーい皆さん落ち着きましょう。あの空中滑車は、日中は基本的に無料で乗れます。急がなくても逃げないよー」
「マジ!? フローリアン、突撃すんぜ!」
「ヨッシャー!」