彗クロ 4
勝気な王女の生彩は失われ、瞳に宿る憂いは先ほどまでとは趣を違えて、女性特有の複雑な色調をなしている。……案の定、いろいろとこじれているようだ。
「……例のレプリカの件が純粋な朗報だったら、一も二もなく全世界に発信してやるさ。大詠師が対応に苦慮することも、市長が孫娘に隠し事をする必要もない。ついでにうちの陛下が根回しの鬼になってこの件にお前が首を突っ込める余地をことごとく潰して回るような真似もしなかっただろうな」
「……」
「まだみんな、気持ちの整理がついてないのさ。正直、『レグル・フレッツェン』はどこにどう転ぶかわからない危険な代物だ。キムラスカが――とりわけファブレ家が、そういう不確かな存在のために派手に動き回るのは、方々にとって心臓に良くない。……ティアもアニスも聡いからな。期待させちまうのは、酷だろう」
歯軋りが聞こえてきそうな短い沈黙ののち、唐突に踵が返され、実に苛立たしげな歩調で赤毛の後姿が遠ざかっていく。乱暴に扉を開いて退出するまで、王への暇乞いすらなかった。開閉の隙間にちらりと覗けた廊下で、無言の威圧に脅され身を引いた警護兵が不憫でならない。
あまりに急激かつエゴイスティックな行動に、声をかける隙さえ掴み損ね、ガイは口を半開きにしたまま遠ざかる足音を見送った。
アッシュの傍若無人は今に始まったことではない。とはいえ、ここまで子供じみた真似をするほど重症ではなかった気がするが……
「……あ、悪化してないか、あいつ……」
「申し訳ありません……」
奇妙に殊勝に、ナタリアが謝罪した。視線は低く、唇を噛む姿は、強い自責の影が痛々しい。
インゴベルトはなんともいえぬもの思わしげな目つきで娘を斜に見たが、口に出しては何も言わなかった。ガイはなだめるように苦笑した。
「ナタリアが謝ることじゃないだろう。ただまあ……手綱はしっかり握っておいてほしいんだけどな。でないと、わざわざ俺がここに遣(よこ)された甲斐がない」
「どういうことです?」
「……本題か」
無垢に首を傾げるナタリアとは異なり、おそらく予期していたのだろう、インゴベルトが身を乗り出すように再び卓に肘をついた。このあたりはさすがの先達。
彼もまた、『別件』に心を砕く一人なのだ。
「〈塔〉の件は委細承知した。キムラスカが調査の音頭を取ることもやぶさかではないと、ピオニー帝へ託け頼む。加えて、例のレプリカに関してはマルクトのやり方に差し出口を挟むつもりもないし、我が王家の名誉にかけて、ルーク・フォン・ファブレ及びファブレ家の勝手を許すつもりはない。……これで良いのだろう?」
「そう仰ってくださると助かります。言質を取れなければ一片の情報も漏らしてやるな、ときつく言い渡されていたもので」
「ガイ、それでは」
沈みがちだったナタリアの顔に、ぱっと明るい気配が射した。ガイはにこやかにうなずいてから、口元を引き締めた。
「『レグル・フレッツェン』関連の進捗状況は、お二人には随時お伝えする方針です。もちろん、他言無用が大前提、調査に障りのない範囲でということになりますが」
「十分にありがたい」
インゴベルトは重荷をひとつ下ろしたように薄く吐息をついた。
どこかのファブレ子爵がスタートダッシュを盛大にこけたために、この件に関してキムラスカは周回遅れに甘んじた上、針の筵(むしろ)を歩かされても文句が言えない立場にまで追い込まれている。主導権は完全にマルクトのたなごころ。かと言ってキムラスカ国王ともあろう者が、今は朋友であるとはいえかつては長年敵対し続けていた因縁のあるマルクトに、それも王室の私情極まる案件でむざむざと頭を下げて慈悲を請うというわけにもいかない。どんなに些細な情報も取り逃せない状況下、マルクト側からの助け舟は願ってもないものだろう。わかっていてやっているピオニーの人の悪さには寒気を、わかっていても享受するほかにないインゴベルトの苦衷には心底同情を覚えずにはいられないガイである。
「では詳細は書面にて、のちほど本国より届けさせます」
「あら、貴方が直接お話してくださるのではなくて?」
「……実を言えば、現時点でわざわざ報告するほどの成果はなくってね。俺がここに来たのは様子見と釘刺しと――ナタリア、君に用があったんだ」
「わたくしに、ですか?」
改まった物言いに目を瞬くナタリアに、再三、ガイは神妙にうなずき返した。
「と、その前に、これは陛下にもお尋ねしたいのですが。お二方、『メティスラヴィリ』という言葉はご記憶にありませんか?」
「メティス、ラヴィリ……古代イスパニア語か? さあ、とんと聞き覚えがないが」
「わたくしもです。もしや、それは人の名前ですの?」
「まあ、そういうことになるんだが」
「歯切れが悪くてよ、ガイ。よくはわかりませんが、むしろ、貴方の故国に関わりの深そうな響きに聞こえますけれど」
「ああ、ホドな」
ガイは力なく苦笑した。ナタリアもインゴベルトも、この件に関しては、もう表立って自責を露わにはしない。わだかまりは皆無ではないが、いちいち立ち止まらずには済ませられるほどに、互いの感傷は十分に慰撫されていた。三年という月日のうちに望外のものが積み重なっていたのだなと、ガイはここにいない無二の親友に心から感謝をせずにはいられない。
「確かに俺もそれは思った。けどなあ、ホドについての資料は今じゃほとんど失伝しているからな。子供の頃のことだから俺の記憶も曖昧だし、古代イスパニア語といっても短縮語やら方言やら特殊な修飾となるとお手上げだしな……やっぱりアッシュにも訊いといたほうが……いや、あの調子じゃあなぁ……」
「ガイ、わけがわかりませんわよ! それが今回の件とどう関係するというのです!?」
ぶつくさとぼやき始めたガイに、ナタリアが足を慣らして凛と一歩前に踏み出した。いつものナタリア節の片鱗がここにきてようやく覗けたことに安堵を覚えつつも、ガイは条件反射で身を硬くしてしまう。
「い、いや、本当にまだはっきりしたことは言えないんだ! ただ、例のレプリカには同行者が数人いて、その中の一人がさっきの名前を名乗っていたんだが、その……国で調査しても、身元がなかなか割れなくて、な」
「それは、大問題ではありませんの!? そんな怪しげな人物が『彼』の傍にいるなんて――!」
「お、落ち着いてくれ、ナタリア。その子は『彼』と同年代の子供だ。さすがに一人で何かを企てられるような相手じゃない」
インゴベルトが記憶を探るように、ゆるりとまなざしをめぐらせた。
「同年代? 確か、件のレプリカは十代前半という話だが」
「ええ、そうです、十二、三がいいところです。それでまあ、ホドの生き残りや関係者の親類という線から洗いなおしているのですが……うちの大将の見解では、偽名を使っていた可能性もあるのではないかと」
「左様に年端もゆかぬ子供が、名を偽ってなんとしようというのだ?」
「それはわかりませんが、大将なりに、少なからず思うところがあるようです。まだ確信は持てないと、詳しくは教えてくれませんでしたが」
「相変わらずの秘密主義ですのね」