彗クロ 4
4-2
ジョゼットは一人で繁華街に下りることに抵抗を持たない。同階層に屋敷を構える人々が聞けば眉をひそめそうな話だが、娘時代より困窮した家庭事情に直面していた彼女にとっては、お貴族様の、傲慢との境界を知らぬ矜持など、一瞥の価値もない瑣末事である。
闘技大会の開催期間とあって、目抜きのバザーは平素に増して活気づいている。国内でも最大級の、特別な大会だ。大会が始まる日の入りを待たずして、国内外からの観光客ですでにかなりの人出だった。
下層の人々はなんといってもジョゼットの顔を知らないし、年甲斐もなく少女趣味な装いで表通りを歩こうとも、好奇の視線を向けてくることもない。職場の部下と鉢合わせる確率を天秤にかけるとどうしても怖気が先にたつが、脳裏にひとつの面影を思い浮かべれば、不安など粉微塵だ。自分自身を偽る必要はない、堂々と胸を張って歩いていれば案外気づかれないものだ、たとえ奇異の目で見られたとしても貴女は貴女の思うまま貴女らしくあればいい……
賑わう人波を、そして彼らを受け入れる偉大なるバチカルの町並みを、ジョゼットはいとおしげに見つめ、歩く。生国たるこの国を心から誇り、愛するのに、ずいぶんと長い年月をかけてしまった。そんな人生が口惜しくもあり、誇らしくもある。
馴染みの食品店に顔を出し、おしゃべり好きな女主人と雑談に興じつつ、夕食の材料を選ぶ。普段家のことは家令に任せきりだが、休暇には時間を見て自ら買出しに出ることも多い。実利的な息抜きだ。……給金を捻出するにも労するほどに家が落ちぶれていた当時、それでも見栄を張って外向きの用のためだけに使用人を雇い続けていた頃のことを思うと、金銭よりも気持ちにずいぶん余裕ができたものだと、つくづく苦笑が漏れる。
「すみませんお姉さん、小麦粉ありますか?」
談笑の合間に、ジョゼットの真横から店主へと声がかけられた。
熟年の女店主は、あらまあ、と頬を染め、少し上品に照れてみせた。お世辞と自覚しつつも豪快に笑い飛ばさなかったところを見ると、おそらく相応に見目の良い男性なのだろう。ジョゼットは微笑ましく――わずかならず好奇心も刺激されて――会話に加わる接ぎ穂を探りながら隣に立つ男を見上げた。
「小麦粉でしたら、今年のイニスタ産が――……」
白い眩暈が発声を奪った。
残酷なフラッシュバック。かつて見上げた角度。白に近い銀の髪。思いのほか濃い肌。瞳の色は――
あまりにも、淡すぎる。
親切な人を見つけた、という目で、若い男はジョゼットを見下ろしてくる。旅人らしい風情だった。顔立ちがいいかどうかなんて、ジョゼットにはわからない。とらえどころのない飄々とした笑顔に、見覚えはない。
「イニスタ産の小麦ですか? もう流通するようになったんですね」
小首を傾げる仕草は柔和に過ぎ、軟弱ささえ覚える。肺の底から黒いものが噴出してくるようで、ジョゼットは胸元を押さえた。指先に震えを感じた。
「いえ――え、ええ。……ごめんなさい、急用を思い出したので」
「あ、はい? ええと」
おそらく続くであろう疑問あるいは感謝の言葉は聞かず、ジョゼットは踵を返して足早に立ち去った。
――怒りに近いものを感じていた。気持ちが高ぶりすぎて、嫌悪すら湧き上がる。血が出るほどに唇をかみ締める。理不尽が、不条理が、髄を這い上がり、心臓を取り巻き、緩やかにジョゼットの息の根を止めようとしている。傷つき流された血液が灼熱し、取り残された体が凍える。
逃げるような足運びが奇妙に思われたのか、あるいは体さばきに怒りがにじみ出てしまったのか。すれ違う幾人かが何事かと振り返るのを感じたが、取り繕う余裕はなかった。――ああ、とうとう引導を渡される時がきたのかもしれない。上手く振る舞うことができなくなったら、こうして人並みの服装で街を歩くことなど、もう意味がない。きっと本性を見透かされてしまっている。不相応な女性らしさなど捨て、人殺しの本性に還らなければ……
「アスラン……」
高層へ続く昇降機に駆け込み、鋼鉄の箱の隅で小さく腕を抱き震えながら、甘く、苦く、ただひとりの名を呼ぶ。青ざめひどく儚げなその姿が、恋破れ慄く少女(おとめ)のそれでしかないことに、ジョゼットは気づかない。
***
通いなれぬ屋敷の門を抜け路地に立った瞬間、ルークは本日何度目になるかわからない舌打ちを放った。
即座に小さな後悔がこみ上げ、苦々しく顔を歪ませる。完全に無意識だった。己の行動を制御できていない。
有力貴族の邸宅が軒を連ねる高層階にしては、人手の少ない屋敷で助かった。とはいえ、戸口の前にはさすがに守衛が常駐しており、門扉からの距離は近すぎず遠くもない。舌打ちを聞きとがめられた可能性は、低くない。さらに主の耳に届くかどうかは五分五分か。
これが耳に入れば、屋敷の主人の性格上、おそらく家の者の対応に何か粗相があったのではと気負うことだろう。実際には当の屋敷に対して不満などなかったわけだが、かといってこの場で変に取り繕ったり守衛に告げ口するなと釘を刺すのも何かが違う。日を改めて弁解する必要が生じたことに、ルークは軽い頭痛を覚えつつ、諦観に満ちた足取りで昇降機へと向かった。
……不満があるのは、現状における己の境涯にだ。
謹慎を言い渡されたのが三日前。しかしその具体的な理由は到底公示できる類のものではなく、表向きには体調不良による静養ということで済まされていた。当然、長期間ごまかせる内容ではないから、そのうちに何がしかの条件をつけて登城を許されるものだろうとは思っていた。それは実際その通りで、今回のマルクトの使節はタイミングといい人物といい、ナタリア側からしてみても手打ちのきっかけにはうってつけのものだっただろう。……つくづく、彼女はルークに甘い。
そうして手続き上はなんら問題なく公務に戻れたものの、大手を振って城内を歩ける立場かと聞かれれば、少々肩身が狭い。特に厄介なのが、公務中にも頻繁に顔を合わせることの多い実父のクリムゾンだった。
両親にさえ、謹慎の真相は決して伝わっていないはずだ。が、顔色が悪いわけでも食欲が落ちたわけでも、あまつさえ日課の自主訓練を自重する気配さえない一人息子が、必要あろうはずもない静養を申し付けられた背景に、『ナタリア王女の不興を買った』という事実があるということには察しをつけているらしい。母はことあるごとにナタリアに平身低頭謝るように促してくるし(事情を知らない割に自分だけ悪者にされるのは不本意のきわみだが当の『事情』が事情だけに突っぱね切れない)、父は口では何も言わないものの、顔を合わせるたびに生暖かい視線を向けてくる(若い頃の己自身を重ねるようなしょっぱい目で見られるのは心底精神力を削がれる)。……勘弁してほしい。