彗クロ 4
かくしてどちらかといえばルークに同情的に見えた実父だが、城内ではナタリアの味方をすることに一貫していた。……例の秘密裏の会合の中途で退室した姿を目撃されていたようで、おそらくそこから壮絶な物別れを連想したのだろう。「痴話喧嘩を収拾する甲斐性もない」息子を遠回しに非難するようにねちねちねちねちと、普段なら事務官に任せるような取るに足らない雑務を、この短時間に次から次へとルークに押し付けてくるのだ。実務に就いて早二年。こなれてきたこの時期に、一からやり直せとばかりに使いっぱしりをさせられるのは、地味に堪える。
抑えきれないため息が鼻腔を抜けると同時、昇降機が到着する音が聞こえ、ルークは足を速めた。バチカルは多重階層都市だ。各階への移動は、主に昇降機で行われる。街の象徴とも言える空中滑車は、実のところ観光客の遊覧専用というのが、地元の感覚だ。上下左右、縦横無尽の動きが可能であるため、景観に優れ、立体的に離れた地点に向かうには便利だが、裏を返せばそれ以外の用件で使う必然はないということだ。住民は実利と安定性を選択し、単純な上下移動に特化された昇降機を好んで用いる。高層になるほど、治安面が考慮され、昇降機以外での移動は難しくなっていく。
通りの先の昇降機の発着場を見やると、中空にせり出した形で屹立する鉄格子の柱が数本居並ぶ中、右端の一本の根元で格子状の扉が開かれたところだった。先ほどの音は下層からの昇降機のものだったようだ。目当ての上層行きは空だった。
間が悪い。苛立たしくも速度を緩め、ルークは発着場の前で腕を組んで立ち止まった。余計なことに思考を割かぬよう、昇降機が下りてくるだろう一点をじっと睨み据える。意識的に力を込めた眉間を、バチカル特有のきつい吹き上げが、嘲うように撫でていった。
……「考えないように努める」という不毛な行為に対する集中力たるや知れたもので、外部からのささいな干渉であっけなく崩れるものである。ルークは思わずこめかみが力むのを感じつつ、うっそりと、妙に慌しい気配へと視線を向けた。
先ほど昇ってきた昇降機には、いまだに人が乗機していた。体調でも崩しているのか、いっかな降りてこないのだ。発着場の管理人に手をとられ、忙しなく声をかけられながら、ようようといった態で女性が一人、格子箱の中から抜け出てくる。管理人にけだるげに礼を言いながらふらふらと立ち去ろうとする姿は、折からの強風もあいまって、奇妙に儚く、危うい。
ルークの脳は一瞬の既視感を覚え、まさかそんなはずはとその可能性を振り払おうとして――なんとか本人であることを認識した。
「……中将? ――セシル将軍!」
女性は、びくりと顔を上げ、ようやくルークの存在に気づいたようだった。鈍色がかった金髪が、赤みの強い琥珀色の瞳が、不安定に揺らぐ。
ジョゼット・セシル。先ほど書類を届けた屋敷の主だ。女性だてらに国軍の要職にあり、ファブレ家とは浅からぬ因縁にある。同時に、あの『ルーク』とも……
「ルーク……さま……」
わななく唇からつむぎだされる声が、あまりにも頼りない。
いつものひっつめ髪は解いて風に遊ばせ、白地一色のシンプルなワンピースに、同色のつばの広い帽子という、普段からは想像もつかないほど女性的な……まさしく可憐と評すべき装いぶりだけでも目がすべる。その上、休暇中であるとはいえ、彼女ほどのわきまえた人物がファブレ家嫡子に対して軍式の敬礼をとらなかったことに、さらなる違和感が募った。
「今しがた、貴殿の邸宅に書類を届け終えたところだ。……何かあったのか?」
「ええ、それは……ええ……いえ……」
セシルの視線は落ち着きなく宙を這う。震える手は胸元で握り締められ、鍛えられているはずの肩はやけに小さく見える。意味のないつぶやきを繰り返す姿には、狂気の片鱗さえ……
――す、と彷徨っていたセシルの目が唐突に焦点を結んだ。息を呑んだかのような間隙。
凍りついた姿勢のまま、ルークに視線を合わせることなく、セシルは淡く呼気を漏らす。
「……ルーク様。レムの……塔……での……」
こめかみを激痛に強襲された気分で、ルークは凶悪に顔をしかめた。
……彼女がルークを「正しく」認識しているとは、考えにくい。
ファブレ家嫡男の忌まわしき醜聞――被験者と、秘密裏に取り違えられたレプリカ。その真相を知るのは、王室関係者でもインゴベルト王とナタリア、アルマンダイン伯爵ほか一部の側近のみ、ファブレ家内部には使用人に至るまで周知された上で緘口令が徹底されたと聞く。
当時少将だったセシルはといえば、実は微妙なところだ。ファブレ家との……とりわけ当代当主との――つまるところ父クリムゾンとの関係性は、一筋縄にはいかない。屋敷に出入りすることも多かったようだし、彼女自身、当時騒乱の中心にいた『ルーク』との交流もそれなりにあった。内々にレプリカだなんだという話を耳に入れていたとしてもおかしくはない。……とはいえ、レプリカ問題がくすぶり始めた時期といえば、彼女にはすでに婚約者があり、婚儀に向けて忙しくしていた頃のはず。父も私生活を改め『息子』に向き直り始めたあたりだ。さすがに、ここに至って二人の間に密約めいたものがあったとは、思いたくはない。
……いや。たとえ被験者、レプリカといった話をその当時理解していたとしても、今まさに目の前にいるのが「どちら」なのか――その疑問にさえ到達する者のほうが圧倒的に稀なのだ。ルークはそう、苦々しく認める。
当たり前のことだが、『ルーク・フォン・ファブレ』という存在の抱える深淵より遠く、うとくなっていくほどに、人々はルークの「正体」に対して頓着しなくなっていく。毎日接触する屋敷の人間ですらそうなのだ。自分が仕えている相手が何者なのかということに、危機感や好奇心を働かせることさえ放棄しているように見えるのが、ルークにはたまらない。長年をともにした主とは明確に別人である自分を、平然と「ルーク様」と呼び慕う人々が、時に恐ろしく感じる。
彼らにとって、被験者とレプリカの別など瑣末なことなのだ。区別をつける意味がない。目先にいるルークが、ルーク・フォン・ファブレでしかない。よしんば別人だとわかっていたとして、ルーク・フォン・ファブレが複数存在する必要性は、しかし誰にとっても存在しない。そうやって現実を呑み込んで、大小さまざまな違和感を封殺している人間は、ルークが思っているより多いのかもしれない。
事実、ルーク・フォン・ファブレを名乗るルークは、もはやここにいるただひとりのみ。ルークがルークに戻ることを王の御前で宣言した瞬間、二つに分かたれ重複していた『ルーク・フォン・ファブレ』は、一人に集約したのだ。――確かに存在していた「もう一人」を、往時のどこかに置き去りにして。
「……レムの塔が、どうした」
見えない場所で拳を作りながら、ルークは呪わしいその名をつぶやき返した。理性を総動員して働かせた自制が、語尾をかすれさせた。
抑圧された苛立ちを察したか、セシルは丸めた肩を小さく揺らした。軍人らしい洞察であり、軍人らしからぬ態度だった。