彗クロ 4
『取引先』の意向を受けて一夜の庇に借り切ったのは、バチカル最大にしてキムラスカ最高級の一等ホテル、その最上階のロイヤルスイートである。王室御用達と銘打つだけあって、もはや俗世とは世界が違う。調度品は何もかもが一級品、細部に至るまでこだわりを感じる装飾や細工の数々。リビング、ダイニング、寝室とひとつなぎの全容は、通常の個室を平気で四、五室ぶち抜いた広大さを誇り、それに加えて要人警護用と思しき待機部屋まで存在する。水道はもちろん、十代男子が三人暴れまわって有り余るバスルームも完備、簡単な調理台までついていて、生活には困らないほど設備も充実している。天井は高々、南側全面を覆う格子窓は見上げれば首が痛くなるほど。北側には階段がすえつけられており、外側に向けてロフトがせり出している。そちらの窓からはなんと、バチカル名物の闘技場が二十四時間眺め下ろせるのだ。観戦に熱中するあまり連日の通いで身上を潰す者もいると言われるほどの娯楽であり、円形の場内全域を見渡せる特等席となれば入場料とて決して手頃な価格とはいかない。要は、宿泊料金はVIP席代込みというわけで、総額は推して知るべし。至れり尽くせりというよりむやみやたらと形容すべきサービス過剰ぶりである。
ついでに『取引先』の正体も、推せば知れる。肝心要のレグルがまるで気づいていてないのは幸いだが、自覚なく綱を渡るような真似は控えていただきたいものである。合理性を面子の下敷きにする悪癖は、オリジナル・レプリカの境なく発症する人類の持病であるらしい。
「ところでお三方、これからのご予定は決まっているのかな?」
「っと、そうだ忘れてた。財布、カネ置いてけ」
「それじゃやっぱり、部屋の中で大人しくしててくれるつもりはないわけだねぇ」
「たりまえだろーがッ」
「出店っ、でみせっ、焼きソバっ、イカ焼きっ☆」
「それよか空中滑車だっつーの! あと闘技大会!」
「闘技場ならロフトから見えるじゃないか。特等席だよ?」
「窓越しなんてつまんね」
「そーだよー、カキ氷もわたあめも食べれないじゃない!」
「ははは。了解。ホテルのディナーはキャンセルしておくよ。ここの料理人は超一流って有名なんだけどねぇ」
「えっ!? そ、それはちょっと惜しいカモ……けど出店が、出店がぁ……うぅーーー」
「ざけんな、金持ちどものくいモンなんか食ったら舌が狂っちまう。そこらへんでテキトーに食べ歩くから、そのぶん多めによこせ」
「はいはい、そう言うだろうと思って、必要だと思うものはまとめておきました。各々こちらをお持ちくださいな」
「ぶふっ」
「……――ケンカ売ってんのかテメェ」
「ちゃんと肩にかけていってってくださいね。予算の都合上、それ以外はびた一文出せませんので」
「いやがらせかッ!」
「いーじゃん、ボクこういうの好きだよーダサかわ系? ほーらレグルってば似合ってるぅ♪」
「てめぇ――コロス!!」
「ぎゃはははははは!!」
子供たちはいつでも、いとも簡単にゴングを鳴らしてしまう。取っ組み合いをするりと抜けたフローリアンが馬鹿笑いを振りまきながら部屋を飛び出した。それを追ってレグルが外へと突進。慌しく開閉を繰り返しようやく本来の位置に収まった扉に、腰に手をやったアゲイトがやれやれと軽く感慨に浸った直後、またドバンっと派手な音を立ててレグルが室内に顔を突っ込んできた。
「――おいルーク! なにしてんだ、行かねーのっ?」
アゲイトはレグルの視線の先を首で振り返り、窓辺に座る人影を認めると肩をそびやかして、口元に指を立てながら再びレグルを見返った。
「寝てるよ。疲れてたみたいだね」
「……んだ、つまんね。起きたとき元気あまってたら闘技場見にこいって言っとけ」
「はいはい。――ああレグル、あたまあたま」
「わーってるっつーのっ」
乱暴ながらも音量を絞った悪態を放ちながら、レグルの姿は閉じゆく扉の向こうに消えた。
ぱたぱたと廊下を駆け抜ける妙に可愛らしい足音が完全に聞こえなくなって、アゲイトはようやくのように肩から吐息を落とした。卓上に並べた品をいくつか手に取り、南窓へと歩み寄る。
保安性と装飾性との葛藤の極限で折り合いをつけたと見える全面窓は、縦横に走る媚茶色の格子そのものが細緻な芸術品だった。一目でそれとわかる確固としたモチーフではなく、見るもの各々が己の感性から湧き出た何かを取り出し当てはめる、抽象性の高い細工だ。華美に過ぎず、伝統色の強い重厚な雰囲気。枠の内側を埋め尽くす玻璃の向こうは、鮮やかな青空が広がる。
窓辺に置いた椅子におとなしく腰かける少年の姿は、日常からかけ離れたその空気に、奇妙によく馴染んで見えた。
白一色のブラウスにシンプルな六分丈の黒ズボン、両肩にはサスペンダー、襟元には控えめなクロスタイ。どこの社交場に連れて行っても恥ずかしくない、深窓のご令息ぶりだ。
すっかり一段落ついて椅子に馴染んだ様子を見るに、湯気の余韻をまとっていた二人よりもずっと早めに入浴を切り上げたのだろう。とすれば、人物指定もせずただ並べておいた衣類の組み合わせから、アゲイトが意図した通りの最適解を真っ先に選び出してくれたことになる。高級品を模したデザインも、肩肘張らずにさらりと着こなしているあたりは、さすがといったところか。
「……俺も行ったほうが良かったか?」
静かなつぶやきは、もちろん寝言などではない。しっかりと見開かれた翠の眼差しは、窓の外に向けられている。
白い露台(テラス)の向こうには、バチカルの入り口広場が一望できる。闘技大会のお祭り騒ぎに活気づくバザー、長槍を手に持つ番卒が幾人も配された長大な石橋。キムラスカ王国の鮮やかな旗幟があちこちで悠々と翻る。
見入るようでいて、けれどどこにも焦点を合わせたがらない、曖昧な瞳。レグル曰くの『省エネモード』に没入してしまったルークは、普段に輪をかけて感情のありどころを読ませない。特にこのバチカルに到着して以来、その傾向が強まっているように、アゲイトには感じられた。
アゲイトは当たり障りのない微笑で武装する。たとえ内実を読み取れずとも、彼自身が穏やかでいられるのなら、無理にその感情を波立たせる必要はないのだ。
「僕としてはこれで予定通り。バチカルにいるうちは、君はあまり表を出歩かないほうがいいね。特に今日は」
「……だよな」
「このあと僕も夜まで用事があるから、留守番を頼めるかな?」
「ああ、大丈夫」
「食事はどうする? ルームサービスを使ってもいいけど」
「ん……大人しく待っとく。フローリアンが山ほど土産買ってきそうだし」
「ははは、確かに」
ルークの受け答えは、思いのほかしっかりしていた。レグルたちの与り知らぬ間に二人きりで言葉を交わすことも、実は少なくはないのだが、話し合いを重ねるたびルークの言動は徐々に芯を持っていくように感じられる。それでも、塞ぎこむようにして外部との交流を遮断してしまう現象は前触れもなく頻発し、原因が解明されないためになかなか是正されない。
完調を取り戻すには今一歩、もうひと押しというところか。しかし、いたずらにそれを促すべきか否か。正答を、門外漢のアゲイトは持たない。