五月雨
ざあざあと鼓膜を揺らす音に、足を止めて思わず眉を顰めた。
今日の予報は朝食を食べながら何となく聞いていたものの、実際に降っているのを見るとやはり、気分の良いものではない。
思わず溜息を吐いてから足を踏み出すと、湿った空気をそのまま吸い込んでしまったかのように、体中が重くなった。
薄暗い廊下の突き当たりに、ぼんやりと非常口表示のランプが浮かび上がる。
滲むような緑の明かりから目を逸らし、足取りは自然と早まった。
歩くにつれ大きくなる雨音と、雨特有の臭い。
微かに熱の篭もったような空気に混じって、汗とも埃とも付かない独特の臭いが漂ってくる。
これだけ大人数の上靴が集まれば――と想像しかけたところを、トムは無理矢理思考を押しとどめた。これ以上は気分が悪くなりそうだ。
アルミ製の簡単な扉を開くと、上履きを半ば放り投げるようにして突っ込んだ。
代わりに取り出した革靴は、やはりどこか重たい。
見た目だけで大して中身の入っていない鞄を肩に掛けなおしてから、側の傘立てにあったビニール傘を適当に掴んだ。
勿論、自分の物ではない。だがトムにとってそれは、大した罪悪感も伴わない行動だった。
ビニール傘なんて失くして当然の使われ方をすることが殆どだったし、実際自分も、何度か持って行かれた経験もある。
大半の生徒が帰っているこの時間帯にこんな場所に残っているくらいなら、自分が使ってやろう。
そんな自分本位の善意にまで、トムの思考が進んだときだった。
(――ん?)
ビル郡の様に並んだ下駄箱が途切れ、玄関扉まであと数歩の距離。
その狭間に、金色の物体を見つけた。
靴の爪先をトントンと床に当てながら靴を履く。
ずり下がって来る鞄もそのままにその物体に歩み寄れば、蹲っていた人影が僅かに揺れた。
「…あ、」
顔を上げた途端、もの凄い剣幕で睨まれた。かと思えば、すぐに沈んだ表情に返る。
「傘、無いのか?」
「あ…えと、あの…」
「無いんだったら、一緒に入ってくか?」
「え、」
心底驚いたように、双眸が丸められる。
「良いん、ですか」
おずおずと告げられた言葉に、俺は頷いた。
「つってもこれ、俺の傘じゃねえんだけど」
冗談交じりに笑いかけてやれば、釣られてそいつもへにゃりと笑う。
座り込んでいるそいつに、手を伸ばした。
「ほら」
「え?」
「だから、手」
「いや、いい、です…」
「なーに言ってんだ、よっと」
断るように振られた両手首を掴んで、引っ張り上げた。
素直に従ったそいつは立ち上がり、目線の高さが逆転する。
「その代わり、お前が傘持ってな」
背を向けて、歩き出す。
俺の後ろを間隔を開けて付いて来るそいつは、猫みたいだと思った。
作品名:五月雨 作家名:蒼氷(そうひ)@ついった