小説インフィニットアンディスカバリー第二部
もはや兄とも呼べぬ異様な姿に、ヘルドと相対したときと同じ恐怖が身をすくませると、走馬燈のように蘇った記憶が流れすぎ、思考を停止させる。
白く塗りつぶされた思考の中で、ヴィーカは目の前の現実を閉じるように目を瞑った。
……これで、終わる。
避けようにも避けられないと感じた瞬間、頭の中にあったのは、たったそれだけの感慨。
不思議と楽になった気分に身を任せると、ヴィーカはもうすぐ訪れる終わりを待った。
兄を助けたいという思いが妄執に変わり、他人を傷つけ、自分を騙し、目の前の現実を否定し続けてきた。どういう形であれ、それが終わると思えた瞬間、心を縛り上げていた呪縛の鎖が崩れ落ちる音をヴィーカは聞いた。
「くっ!」
直後、白濁する思考を遮るように激しい金属音が耳朶を打ち、嗅ぎなれない薬の匂いが鼻孔をくすぐる。ヴィーカは思わず目を開けると、そこにはさらりと広がる金髪があり、兄の剣を鎖鎌で受け止める背中があった。
「さっさと下がれ、邪魔だ!」
きつい言葉はまるで気付け薬だ。キリヤの物言いに一瞬の白日夢は立ち消え、手に持つ薬の重みが蘇ると、ヴィーカはエドアルドの姿を目の端に捉えた。そうだ、まだこの薬を誰にも託していない。慌ててヴィーカが後じさると、キリヤと兄が一合二合と刃を交え始める。
「キリヤ、やはりおまえでは私の相手にはちと不足だ。それの相手でもしていればいい。私の相手はやはり……」
二人のぶつかり合いを楽しげに見つめ、一度ソレンスタムに向けた視線を戻すと、ヘルドがヴィーカを睨んで言った。
「その前に邪魔は排除しておこう」
月の力をのせた分銅が音を立てて空を切り、衝撃波を伴ってヴィーカに殺到する。
「死ね」
巻き上げられた土煙がヘルドの姿を隠し、襲い来る分銅が次第に大写しになっていく。ごちゃ混ぜになった感情が身体を拘束し、ヴィーカはただそれが身を引き裂くのを待つしかなかった。
だが、幸いにもその瞬間は訪れなかった。
土煙の中で分銅を跳ね上げた、一本の杖。全身を覆うローブのシルエットが見え、その背に光る金色の三日月が、吹き散らされた土煙の中に姿を現す。
「あなたはやりすぎました、ヘルド」
静かな怒りをたたえ、ソレンスタムが言う。
「ふはははは。やはり、相手はハイネイルでなくては。師よ、この力、試させていただきましょう!」
喜悦を浮かべたヘルドが答え、襲いかかる。
爆発した感情がまだ身をすくませていて、薬をその手に握ったまま、ヴィーカはそれらの戦いを呆然と見守ることしかできなかった。
思っていたよりも、世の中には知らないものが多くある。
ハルギータの城とコバスナの森しか知らぬ自分は、まだまだ未熟なのだ。スバル女皇がシグムントに協力するよう命じてくださったのは、そんな自分の未熟さを思ってくださってのことなのだろう。
「ありがたい……」
蜘蛛の群れを蹴散らしながら、トウマは女皇に感謝を捧げた。
ハルギータとは全く違う街並みには、どこか作り物めいた印象がある。それが雪に飾られる様は、肌を刺すような気温と相まって、ゆるみがちな気分を引き締めてくれるだけの峻厳さに満ちていた。
知らぬ街並み。知らぬ敵。知らぬ仲間。
それら全てがトウマにとっては鮮烈で、だがそれを噛みしめている時間がないことも承知している。
「殿下、敵が多すぎます。このままでは近づけません!」
群がる蜘蛛を両の小太刀で切り伏せ、コマチが言う。
敵の数に比して、戦力が圧倒的に足りない。戦理に従うなら、ここは一気に敵の頭を狙うべきだが、それを実現するための最低限の条件が足りていないのだ。それならば、今やれることに全力を尽くすのみ。
「コマチ、ここは耐えよ! ユージンたちが戻ってくるまで、蜘蛛の拡散を最低限に押さえ込むぞ!」
「はいっ!」
蜘蛛の数が劇的に減った。
避難する一般市民を護衛しながら、ユージンは時計塔の方を見遣り、そこで戦っている幼なじみの姿を思い浮かべる。
シグムントとトウマ、そして自分の三人が一緒の時は、年長者である自分がいつも抑え役だった。二人とも、小さい頃から失敗することを恐れない無謀なところがあったから、自分がその役割を担うのは当然だろう。そう思っていた。だが、いま思えば、なんでも出来る、と思っていたのは自分の方だったかもしれない。三人でいれば、なんでも……。
ユージンは杖を振り上げる。
減ったと言っても、敵の数はまだ多く、逃げ惑う人たちに秩序はない。守りきれないことはわかっていても、一人でも多くを無事に逃がしたかった。
「きゃあ!」
親とはぐれたのだろうか。小さなクマのぬいぐるみを持った少女が道に倒れ、一人取り残されているのが見えた。
まずい。
遅れた少女を狙う蜘蛛の群れを視界に捉え、ユージンは慌てて月印を発動させる。
人間の頭大の岩石を目の前に生成し、それを対象に向かって撃ち放つ。土属性魔法の初歩だが、初歩ゆえに発動も早い。ユージンは咄嗟に繰り出したその魔法で蜘蛛を打ち払おうとしたが、作り出した岩石よりも襲いかかる蜘蛛の数が多く、数匹を取り逃がす。
「逃げるんだ!」
そう叫んでみても、少女は足を怪我したのか、それとも恐怖に震えてか、その場にへたり込んだまま、襲いかかる蜘蛛の様子を見ているだけだ。
また一人、守りきれなかった。
少女の引き裂かれる姿を正視することなどできるはずもなく、ユージンは目をそらした。
瞬間、人のものではない断末魔が鼓膜を震わせた。
はっとしてそらした視線を戻すと、蜘蛛と少女の間に割って入った兵士の姿があった。
甲冑のものから、ケルンテンの兵士であることは疑いない。数人の兵士に続いて、逃げる人の流れを逆走してくる甲冑姿が徐々に増え、ユージンは突然の援軍を唖然とした面持ちで見つめていた。
「解放軍の方とお見受けするが」
部隊長らしき出で立ちの兵士に声をかけられ、ユージンは慌てて返答する。
「そうです。ケルンテン軍の兵士ですか? 確か、解放軍への協力は拒否したはずでは」
「上がなんと言ったかは知らないが、ケルンテンの治安維持は我らの勤めだ。ここは我々に任せて、あなたたちにはあの馬鹿でかいのを何とかしてほしい」
上の命令無しに動いているのか。
どこか冷たい印象だったケルンテンの人たちの中にも、こういう人もいる。そんな当たり前のことを忘れていた自分に気づいて、ずいぶんと余裕を失っていたんだなとも気づかされると、久しぶりに軽くなった気分にユージンは少しだけ笑った。
「助かる」
それを快活に笑って答えると、部隊長は部下たちの元へと戻っていった。
彼とすれ違うようにミルシェがこちらへやってくる。別れて動いていたが、彼女の方にも援軍が来たのだろう。
「ミルシェくん、君は彼らの手伝いとけが人の治療を。大蜘蛛はトウマたちと僕で何とかする」
「わかったわ」
けが人の間を駆け回り始めたミルシェの背中を見遣ると、ユージンは来た道を引き返し、仲間の待つ時計塔の方へと走り出した。
「そこをどきなさい! 我々はあの化け物を追わねばならない! やつが解放軍の仲間だというのなら、それなりの責任を——」
作品名:小説インフィニットアンディスカバリー第二部 作家名:らんぶーたん