小説インフィニットアンディスカバリー第二部
女王蜘蛛の腹の下で、月印がそれを縛る鎖もろとも弾けて消えた。その瞬間を認識できたものはこの場にいなかったが、知らずとも、その結果はケルンテン中から確認できた。紫がかった閃光の柱が女王蜘蛛を飲み込んで立ち上り、紅蓮の炎ごとその巨体を飲み込んで収束する。時を合わせて、街中の蜘蛛が光となって霧散した。
先ほどまでの戦闘は夢だったかのように、静謐の時間がケルンテンの街並みを押し包んでいった。
「ファイーナ!?」
月の雨を吸った直後だった。リバスネイルの片割れが発狂したように頭を押さえ、ドミニカではなく、逃げ惑う人の群れに向かって走り出したのだ。その人の群れの中に、ファイーナがいた。
刃を交えていた方のリバスネイルをはじき飛ばし、ドミニカは走り出したリバスネイルを追いかけた。
人の流れで突き飛ばされ、ファイーナはよろけてその場に倒れてしまう。リバスネイルが剣を振り上げ、凶刃にファイーナを掛けようとした。
「ダメだ、間に合わない……!?」
刹那、リバスネイルが動きを止める。
心を取り戻したのかと思ったのも一瞬、リバスネイルはファイーナを殴り倒すと、狂ったように雄叫びを上げて再び剣を振り上げた。
だが、その逡巡のおかげでドミニカが追いつく。
槍の刺突一つで終わる。
……でも、もし心を取り戻したのだとしたら?
その迷いが刺突を踏みとどまらせ、ドミニカは槍を地面に突き立てると、それを支えにして跳躍し、リバスネイルの背中を思い切り蹴り飛ばした。
迷いは隙を作る。
体勢を崩したドミニカに、もう一人のリバスネイルが殺到する。構えられた剣を見遣り、避けられないと感じつつ、ドミニカは体勢を立て直しながら敵を視界に捉え続けた。
「ラリオーガ」
覚悟と足掻きを同時に行うドミニカの視界を、直後、横合いからほとばしった極太の閃光が蹂躙する。それは目の前にいたリバスネイルの黒い影を飲み込むほどの巨大さで、飲み込まれたリバスネイルは全身を焼かれて絶叫し、直線上に焦げた地面に突っ伏すこととなった。
ミルシェだ。
走ってきたのだろうか、大判の魔導書を抱え、肩で息をしている彼女の姿を視界に捉えると、ドミニカはすぐに槍を構え直した。蹴り飛ばしたリバスネイルが再び獣の咆哮を上げ、こちらへと飛び込んでくる。二対一から一対一へ。隙を埋める相方のいなくなったリバスネイルの動きは、もはや手に取るようにわかるほどの単純さだった。
「終わりにしよう」
剣が振り切られるより早く。
手が届くよりはるかに遠く。
ドミニカの槍が一直線に伸び、猪突するリバスネイルの胸を正確に貫いた。心臓を両断されたリバスネイルは、その槍が引き抜かれるのを待たずにただの肉塊と化していた。槍の支えを失ったリバスネイルが崩れ落ちると、その身体から障気とも呼ぶべき黒い影が消えていく。
振り返り、震えるファイーナの横を通って、ドミニカはミルシェに焼かれたリバスネイルのもとへと歩み寄った。全身を痙攣させながらもまだ生きているそのリバスネイルの身体を、徐々に黒い炎が修復していく。いや、浸食しているのか。その禍々しい姿に、心の芯がすっと冷えるのをドミニカは感じた。
「眠れ、安らかに……」
仰向けになったリバスネイルの胸に槍の穂先を据え、ドミニカはわずかに目を瞑ると、刃をリバスネイルの胸に沈めた。
くぐもった声を漏らしたのも一瞬、リバスネイルの右腕に縛られていた月印が鎖もろとも弾け、その身体を覆っていた漆黒の翼と甲冑が姿を失う。残ったのは、どこにでもいそうなありふれた青年の姿だった。
ファイーナがよろよろと立ち上がり、その青年の前に跪くと、もう動かなくなった手を取った。肩を震わせ、堪えきれない涙がこぼれ落ちると、それは倒れた青年の頬を濡らした。
「知り合いかい?」
ファイーナは何も言わず、一つだけ頷く。その腕の中で紫の閃光が屹立し、青年の姿はかき消えた。
泣き崩れるファイーナを置いて、ドミニカはそっとその場を離れた。
戦いの最中に崩れた壁が、目の前にあった。
叩きつけた拳の痛みは、肉体の痛みか、心の叫びか。それとも、月印の軋みだったのだろうか。血に混じって後味の悪さが口中に広がり、ドミニカはやり場のない怒りを飲み下せずにいた。
降り始めた月の雨が、今だけは味方をしてくれている。
軽くなった身体を躍らせ、アーヤは月印の力で作り出した光の矢を撃ち放った。それは宙に浮かぶ球体の群れを擦過して飛び、直上で弾け、無数の矢となって降り注いだ。月の雨にも似た光の矢がソーサリーグローブを捉える。だが、それはソーサリーグローブの張った魔力の被膜によってかき消され、鈍色に光る球面に傷一つつけられないでいた。
「これじゃ駄目? それなら」
吸収した月の力を引き絞った矢に乗せ、それを炎の鳥へと変化させる。いつもより一回り大きく広げた翼をはためかせ、カーディナル・クロークが敵である球体の群れを追った。中空で弧を描かせてみれば、その姿はまさに鳥だ。球体のいくつかを炎でなぎ払い、アーヤの放った鳳凰が空を舞う。
それを避けるように降下してきたいくつかのソーサリーグローブに向かって、アーヤは一気に接近する。炎の軌跡を大地に描き、加速しながら矢を弓につがえ、矢じりの触れる距離からそれを解き放つ。防御のための結界を張らせない至近の一撃は、金属質のその球体を真っ二つにたたき割った。
背中から気配。鋭敏になった感覚がそれを捉え、アーヤが横に跳ねるに合わせて雷撃が襲ってくる。振り返ると同時に眼前まで接近してきていたソーサリーグローブを見ると、アーヤは咄嗟にそれを蹴り上げた。体勢が崩れるのに任せたまま、頭上に浮かばせたソーサリーグローブに向かって矢を撃ち込む。矢が突き刺さり、機能を失って落ちてくるのをかわしながら立ち上がった。疲れるどころか、逆に調子の上がってくる感覚に少し驚きながらも、アーヤは確信する。
「いける……」
その確信を力に変えて月印に収束させ、アーヤはそれを弓に添えた。爆発的に吹き上げた炎が六本の矢と姿を変え、弓を中点とする円を描いて展開される。指先に走った痛みが力の許容量を教え、アーヤは肥大化したエネルギーの臨界点を感じ取った。弦が弾かれるのを合図に、炎の矢はそれぞれの獲物を追って手元から解き放たれる。それぞれがカーディナル・クロークと同等の火力を持つその姿は、さながらフェイエールの聖獣である朱雀からこぼれ落ちた、六枚の羽だ。
さすがに重くなった身体を支えながら、六枚の羽がソーサリーグローブの群れを次々と爆炎に包み込んでいくのをアーヤは見上げた。いつもはこれほどうまく制御できない技だったが、これも月の雨の恩恵だろうか。
……薬と毒はコインの裏表だ。敵を倒すだけの力を与えてくれる月の雨。それは同時に、エドアルドを狂わせた一因でもあるのだから。
アーヤはエドアルドの方を見遣る。
カペルを攻撃するその合間に、エドアルドは苦悶の表情を浮かべているようにも見える。漆黒の翼が月の雨を吸い、踊るたびに動きが止まる。それはカペルにとってはプラスだったが、エドアルドの状態が刻一刻と悪化しているということも意味していた。
作品名:小説インフィニットアンディスカバリー第二部 作家名:らんぶーたん