決意は揺れて 1
「あの子もとうとう結婚かぁ」
仕事帰りに同僚三人でご飯を食べに手ごろなイタリアンレストランを訪れていた。いわゆる、女子会になるのだろう、会社の浮ついた話が当然のように出てくる。結婚を報告していたばかりの同僚についての話題からそれは始まった。
「私、いつ結婚できるんだろ」
「いーじゃん、同棲してるんだし。私なんてフリーだよ?」
「逆に結婚のきっかけがないの。あんたこそ、年上の彼氏作ってさっさと結婚しそうじゃない」
同僚女子の会話を他人事のように聞きながら、笠松幸緒は口に入れたパスタをゆっくりと咀嚼していた。正直なところ、あまり興味のある話題ではなかった。
「てか、幸緒はどうなのよ」
そのため、突然振られた話題に、むせるしか出来なかった。
「きゅ、急になんだよ」
戸惑っている間に、同僚はどんどんと会話していく。
「年下彼氏。高校からだっけ?」
「高校の卒業式って言ってたよね。もう7年とか長いよねー」
「でも、まだ彼氏が23だったら、遊びたい盛りだよね」
「じゃあ、結婚はまだ遠いかー」
当人を差し置いて、結婚の時期をわいわいと盛り上がる二人に圧倒されるしかなく、止めるどころか口を挟む隙すらない。結局、だらだら続きすぎると良くないだとか、今期を逃すかもしれない、なんてアドバイスも貰うことになった。
笠松は皿に残っていたトマトにフォークを突き刺す。
「で、実際はどーよ」
「実際って……。そうだな、今、仕事が楽しいって言っていたし、結婚は遠いかもしれないな」
しかし、それでも、笠松は待つもりでいた。
たとえ、結婚が30歳を過ぎても、いつか捨てられても。二人の関係性が変わるのを、ただただ待つ覚悟はできていた。それは、自分から決断しない、無責任だと自覚していても、彼と付き合い始めたその日にそう決心していた。
「あいつ以外と付き合うつもりはないし、結婚を焦ってもいないから。あいつがしたいと思ったタイミングでいいと思ってる」
殊勝だと驚く同僚を無視して、トマトを頬張った。
残業していた人や、食事を済ませた人が散見する駅に三人も移動した。
「じゃ、お疲れさまー」
違う路線に乗る二人と別れてホームに立つ。
電車の待ち時間にスマートフォンを確認すると、電話の着信とメールの着信が一件ずつあった。先にメールを確認すると、先ほど話題に出たばかりの恋人から、仕事終わりに家に行ってもいいかと尋ねる内容だった。
彼の示した仕事の終了予定時間は、ちょうど店を出た頃で、電話の着信があったのも、ついさっきだった。
ひとまず、大丈夫というメールを返し、ちょうど着いた電車に乗り込む。
最寄り駅から慣れた道を歩き、自らの住むアパートにたどり着く。自分の部屋のドアの前に、帽子を深く被った、がたいの良い男がしゃがみこんでいる。
「センパイ!」
笠松の足音に気づいた男は立ち上がり、目を輝かせながら笠松に近寄ってきた。
「遅くなって悪いな。同期と飯食ってたら遅くなっちまって」
「いいっスよ。俺が急に言ったことなんで」
鍵を開けて、男を部屋の中へ入るよう促す。中に入った途端、深く被っていた帽子を脱ぎ、押し付けられていた髪に空気を含ませるよう、首を振った。金色の髪がふわりと揺れる。
「つっかれたー」
誰が見てもイケメンと評価される、顔立ちの整った目の前の男は、雑誌やファッションショーで活躍する人気モデルの黄瀬涼太だった。バラエティ番組の特集をきっかけにテレビ番組に出ることも増えた。最近では、ドラマの端役でモデル役として出演したとき、あれは誰だと話題になり、ドラマの仕事も入るようになったため、知名度が一気に上がり、うかつに外を歩けなくなったと嘆いていた。
本人はモデルの仕事を優先して、テレビの仕事はあまりしたくないと言っていた。それでも、稼げるときに稼いでおきたいからと、モデルの仕事がない限り、オファーの来た仕事は極力引き受けるようにしているのを笠松は知っていた。
「今日はカツラじゃねーのか」
「ウィッグっスね。もともと、今日は遅い時間に終わるはずの仕事で、センパイん家に来る予定じゃなかったんスよ。天気の都合で……あの、迷惑でしたか?」
そのままで来ること。
上目遣いで伺うように尋ねてくる黄瀬。普段、誰かにつけられたりとか、迷惑が掛からないようにと黒色の髪をウィッグを着けてきている。笠松にしてみれば、一風変わった黄瀬の姿を見れて新鮮という感想を抱くだけだったが。
身長が高いくせに上目遣いが上手いって、どういうことだよ。
短く息を吐く。
「迷惑なんかじゃねぇよ」
高い位置にある黄瀬の髪の毛をくしゃりと撫でる。
迷惑どころか、会いたかった。なんて素直に言えるものでもなく、大丈夫だと伝えるだけが、笠松の精一杯だった。ただでさえ、二週間ぶりに会えるのだから。
笠松自身も忙しい日が続き、タイミングが悪いとはいえ、電話ですら一週間前が最後だった。
「明日、早いのか? 泊まってくなら風呂沸かすけど」
何も食べていないという黄瀬に、冷蔵庫の残りで適当に作って出した。黄瀬が食べている中、撮影の合間のくだらない話を聞いていた。こちらに振られたとき、今日の食事のときの話題を口にしようとしたが、その大半が恋愛や結婚の話だったことで、言葉を飲み込んだ。そんなことを話して、自分も結婚を急いでいるように思われてしまったら。
7年の付き合いだからと、結婚を急かすつもりはない。
「出来れば泊まりたいっス! けど、シャワーでいいですよ」
早めに寝たいんス、という黄瀬。ひどく疲れているようで、先にシャワーを浴びるよう勧める。
髪の毛を乾かして、笠松はベッド周りで寝る支度をする。
「玄関の電気、消してきましたよ」
「おー、ありがとう」
振り返らずに掛け布団を整えていたら、後ろからぎゅっと抱きしめられた。
「幸緒さん」
耳元で告げられたのは、二人でいるときにしか口にしない特別な呼び方。熱の篭った黄瀬の声に心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
「会いたかった」
「…………私もだよ」
言うと、笠松を抱きすくめていた腕の力が強くなる。耳元へと口付けを落とされると、耳の裏、首筋、方へとどんどん下がってきた。笠松はそれに抵抗することなく、シャツのしたから入り込んできた手すら受け入れて、背中側に体重とぬくもりをすべて預ける。ベッドになだれ込む前に首だけ黄瀬の方に向けて、ねだるように唇同士を重ね合わせた。