猛獣の飼い方
10.きちんと危機管理をしましょう
眠るシズちゃんの顔を見るのは、何度目だろう。
学生の頃、屋上で暢気に眠る顔を見た事を含めても、そう多くはないはずだ。
基本的に、彼は俺の前では気を抜かない。
いつだってピリピリして、俺を警戒しているはずだった。――なのに、
「………間抜け面」
この、気が抜けるような安らかな寝顔を、もう見慣れてしまった気さえするのは何故だろう。
すやすやと、微かな吐息を零す唇も、普段は深く刻まれた眉間の皺が無い、幼く見える顔も。
見慣れてしまった日常のようで――
「ムカつくなぁ…。」
ポツリと呟く。
俺が求めているのは、こんな腑抜けではない。
全力で、俺だけを見る瞳が好きだ。
怒りという一色の感情に支配された彼は、俺だけしか見ないから。
俺が誰よりも理解している"俺"は、そう考えていたはずだ。なのに何故、安らかな寝顔を見ている今、こんなにも心臓が煩いのか。
その唇から、目が離せないのか。
「………ん、…」
零れた吐息を、奪ってしまいたいと考えるのか。
残念ながら、俺の頭はこれらの現象の答えを知っている。出来れば自分と、ましてや彼の間に結び付けたい感情では決して無い。
「――――シズちゃん」
パニックを起こしてもおかしくない事実との遭遇の後でも、俺の声は随分と静かに響く。
しっかりと抱きすくめられた腕の中、何度か身じろぎをして拘束から抜け出すと、眠る彼の顔まで身体を寄せた。猫で良かった。人間の俺がやっていたなら、きっとすごい光景になっていた。まるで恋人同士のような…吐き気がする。そんな雰囲気は願い下げだ。
今は猫、猫だから…
きっとこれは、キスにはならない。
「…シズちゃん」
起きたら、止めよう。
そう思いながら顔を近付ける。
微かに動いた瞼。安定した吐息。
「ねぇ、シズちゃん」
起きるかも。起きて欲しい。
何を馬鹿な事をと、止めて欲しい。
「―――――好きだよ」
ああ、
どうせなら、ずっと起きないでくれたらいいのに。
君が寝ている間ならば、俺は素直になれるから。
触れるだけ。
第三者から見れば、ペットが飼い主にじゃれているだけのそれが、俺とシズちゃんとの初めてのキスだった。
「…ばかみたい」
たかがキスで、こんなに動揺するなんて。
ああ、だけどシズちゃんとのキスだ。想像していなかった。自分の一生で、こんな経験が待っているなんて夢にも思っていなかった。
「――――いざ、や?」
まだ眠そうな瞳が、俺を映す。
キスで目が覚めるなんて、どこかの御伽話みたいだねシズちゃん――そんな言葉が口を出そうになった時、目前の瞳が一瞬で、怒りに染まる。しかし、俺が気になったのはそんな事ではない。
「あれ?…シズちゃん、それ…」
「臨也くんよぉ。手前、何、勝手に人の上に乗っかってんだ?ああ?!」
ドスの効いたシズちゃんの声は、正直朝から聞くのはちょっとキツイ。
いや、でもそれより…ねぇ、シズちゃん。それってさぁ…
「猫ならともかく、朝っぱらからノミ蟲野郎に乗っかられる筋合いはねぇんだよ!」
「これ、本物…?ねぇ、シズちゃん、猫耳が生えてきてるよ?」
「「……え?」」
どちらにとっても想定外。
あ。ホントだ俺人間だよ。さっきまで猫だったのに、今はちゃんと手が見える。しかもマッパ。あはは、これでシズちゃんの上に乗ってたとか、軽く変態だよねぇ。しかも戻り方が実にチープだ。御伽話云々人に言える立場じゃない。
「…猫耳?」
シズちゃんは、一見変態の(あくまで構図上は、という話だ)俺よりも、自分の頭上のふかふかさが気になるらしい。うん、そこ気にして。シズちゃんに猫耳とか実に怖いよ。変に可愛いし。
「手前、寝てる間になんかしただろ」
推定ではなく、断定。
俺ってどこまで信用されてないんだろうなぁ…と、接着面を探しているらしいシズちゃんの手を取った。
「俺は何もしてないよ…?あー、何もって言うのはちょっと違うか」
「何しやがった?ああ?!どうせロクな事してねぇんだろうがよぉ!」
わぁ、青筋凄い。
これ、切ったらすごく血が出そうだよねぇ。
「えーっと、寝てるシズちゃんにちゅーしました」
「…………………」
シズちゃん、思考停止。
ついでに俺の下から逃れようと足掻いた結果、どさりとベッドから落ちました。痛そ。
しかし俺には好都合だったので、適当にシーツを身体に巻きつけてから、シズちゃんの視線に合わせて屈みこんだ。
「個人的な推測を言わせてもらうなら、多分…俺の猫がシズちゃんに移ったんだと思うんだよねぇ」
"だから、実験としてまたちゅーしていい?"
頬をガシリと掴んだまま、小首を傾げる。数瞬のフリーズの後、シズちゃんはすごい勢いで壁際まで逃げていった。あはは、面白いなぁ。
人生って、本当に面白い。
この世に神様が居るとしたら
無神論者の俺に、信心の素晴らしさを教えようとでもしているのだろうか?
唇が弧を描くのを俺は止められなかった。
猫をも殺すと言われる好奇心。今の俺を動かすのは、それだけで――
きちんと危機管理をしましょう
(敵の名前は、折原臨也です)