猛獣の飼い方
16.さよなら、大嫌いな唯一の君
カチリ、と鍵が開く音が清浄な空気の中やけに大きく響く。
シズちゃんは今だ目を覚まさない。それもそのはず、時刻は午前6時を少し回った所だ。
夜更けまで仕事をし、その上普段はしない自炊などした身体には、まだまだ休息が必要な時間のはず。
昨夜は一緒にご飯を食べる辺りまでで、記憶がすっかり抜け落ちているのが不思議だが、朝起きた時俺は自分の身体が元に戻っている事に気が付いた。なんとなく、どうにかなるだろうと楽天的に考えていた部分が確かにあったのだが、いざ戻ってみると"ああやっぱり"では片付けられない事が、沢山あった。
シズちゃんだけが、猫になった俺に気付いた。
なんだかやけにお人よしで、猫好きなシズちゃんに面倒みてもらったり。
そんなシズちゃんが、好きだって、気付いたり。
足音を立てないように慎重に足を進めながら、無防備にベッドで眠る男を見る。
(シズちゃん)
心で呼びかけてみるが、勿論起きない。
その事に安堵しながら、勝手に借りたやや裾が長いシャツとベルトで調節しているズボンについてはまぁ諦めてね、と追加で語りかけておく。
だって、俺はもう、猫じゃない。シズちゃんが気に入った毛並みも、可愛らしく鳴く声も、今の俺は何一つ持っていない。猫のままだったなら、伝える事も出来たかもしれない想い。今ではもう、捨て所に困った厄介な感情の一つでしかない。
シズちゃんは俺が大嫌い。
それで俺も、シズちゃんが大嫌い。
それだけが、今までの俺達。
ヒトに戻ったならば、このおかしな関係もオシマイ。ただ、それだけ。
「シズちゃん…」
なのに、なんで今、俺はこんなに泣きたいんだろう。
どこまでも安心しきった顔で眠るシズちゃんを見ていると、胸がズキズキと痛む。これが恋だというならば、知らずに死んでいきたかった。気付かないまま、君を殺してしまえば良かった。
鍵を開けた部屋から、いつまで経っても出られない理由。
それは俺が、今この関係を惜しんでいるからに他ならない。
起きたシズちゃんが、俺を見たらそこでオシマイ。
殺意に溢れた瞳に睨みつけられる事は、分かってる。ならば初めから、去ってしまった方がいいって事も。
なのに、足が動かなかった。
手を伸ばすと、暖かいシズちゃんの頬に触れる事が出来るというのに、この距離を手放さなければいけないなんて。
「………ん、」
シズちゃんの瞼がピクリと動いて、俺は慌てて手を退ける。
気付かれる前に、起きる前に、この場から去らなくては――
ああ、なのに俺は。
俺の心は、まだ願っている。
あの柔らかい声で、もう一度名前を呼ばれる瞬間を。
「……いざや?」
「――――うん、」
「んで、そんなトコいんだ。こっち来い」
シズちゃんの声は、決して寝ぼけているそれではなかった。
開かれた瞳は、俺の事を真っ直ぐと見据えている。
「………行っても、いいの?」
「寒ぃんだよ。早く来い」
「ハハっ…何、それ、勝手過ぎ…ッ…?!」
腕の力だけで簡単に引き寄せられた身体が、シズちゃんの温もりで満たされる。
「…一生飼うって、言っただろうが」
「そ、れは…俺が、猫だったから…でしょ?」
「臨也」
「っ…な、に?」
やめてよ、シズちゃん。撫でないでよ。
俺はもう、君が愛おしむ存在なんかじゃないんだよ。
そんな優しい手付きで触れられたら、勘違いしそうになる。
「好きだ。だから、此処に居ろ」
「へっ…?」
見上げた先には、どこまでも真っ直ぐな瞳がある。
いつだって、俺はこの瞳の中心に映っていたかった。
そこには今、俺だけが、映っている。
「好きだ」
焦がれた声が、俺だけに、そう囁く。
幸せで死ぬというならば、今なのだろう。そんな事を考えながら、俺は目の前の身体に思い切り抱きついた。
抱きしめてくる力が強くて、潰れそうだ。でも、潰されてもいい。潰されたいとすら思った。
「…シズちゃん、俺ね、シズちゃんの事が好きなんだ」
「………知ってる」
シズちゃんは、笑っているのに泣きそうな顔で俺の首に顔を埋めた。
幸せで死にそうだ、とさっき俺が考えたのと同じ事を呟くものだから、俺は笑った。
ねぇ、俺の飼い主さん?
君に死なれたら、残された俺はどうすればいいのさ。一生飼うって言ったんだ。責任とってよね。
ふざけてそう言えば、シズちゃんはなんて言ったと思う?
「追っかけて来い」だってさ。なんて横暴な飼い主だろうね!
幸せに蕩け切った頭は、それすら甘く受け取ってしまう。
仕方ないね、これが恋というものらしいから。愚かさと、甘さと、幸せをもたらす感情の麻痺状態。
君とならば、悪くない。
むしろ最高だなんて、最悪に頭が悪い事を俺は思った。
残念な事に、心から。
さよなら、大嫌いな唯一の君
(今日から、唯一の大好きにさせて)
猛獣の飼い方 番外編/end