猛獣の飼い方
7.甘やかし過ぎはいけません
首が無い女に熱狂的な愛を捧げる医者曰く
「いや、実に興味深いよ。人が猫になるなんて現実にあるんだね。創作物中だけの症例だと思っていたよ。まぁ、君の場合日頃の行いが原因の気もするけどアハハ。…え、治療法?そんなのが分かるくらいなら僕はとっくにノーベル賞を貰っていると思わないかい?まぁ、私の頭脳を持ってすればノーベル賞なんて正直目じゃないけどね。残念ながら興味がないんだ。だってそうだろう?僕の関心を惹きつけて止まない彼女についてしか、僕が真剣に考える事なんてないからね!…って痛いよ。爪で引っ掻かないでくれないかい?私に爪跡を付けていいのはセルティだけなんだからってイタタ…ちょっ、臨也本気で痛いって!!」
馬鹿で変態だと思っていた旧友は、暫く会わない内にその度合いを数段階グレードアップさせていた。
勿論、悪い方に。
顔中赤い縦線だらけで、尚もこの場にはいない女へ愛を叫ぶ男を残し(君より先に他の人の爪跡を残してごめんよ、とかなんとか言ってた。嫌がらせに新羅の背に爪跡が残るような日が永遠に来ない事を、一日五分くらい祈る事を日課にしようか。…いや、面倒くさい)ドアから外に出ようとして…
「…ちょっと。開けてくれない?」
猫の身体では、ドアノブに手が届かない事に気が付いた。
シズちゃんをからかう時には重宝するけど、基本的にこの身体は本当に不便だ。役に立たない医者を引っ掻く位しか利用できない。
「あれ?もう帰るのかい?もう少し居てもいいんだよ。というか、出来たら解剖させてほしいな。…え? いや、解剖してなんとかなるとも思えないんだけどさ。まぁ、所謂興味本位というやつだよ」
「元に戻ったら覚えてろ」
地の底を這うような声で告げれば、新羅はあっさりと両手を上げてこう笑った。
「いやだなぁ、ジョークだよ」
「…………」
「……ちょっとだけね」
「ハァ。もういいよ。君に頼ろうとした俺が甘かった。……ん、?」
溜息と共に、開け放たれたドアをくぐる。同時に、鼻につく埃の匂い。
「ああ、雨が降り出したみたいだね。臨也、傘持っていくかい?」
どうやって差すんだ。
嫌味か。嫌味だな、この変態眼鏡。
びしょ濡れの俺が帰る先として選んだのが、馴染んだマンションではなくボロアパートだったのは単純に距離が近かったからだ。帰る場所が選べた事に気付いたのが、安っぽいドアの前だったなんて悲し過ぎるのでそういう事にしておこうと思う。
ドアの前で丸くなって家主を待っていれば、俺に負けないくらい濡れ鼠のシズちゃんが帰ってきた。
ポカン、と時が止まったような表情は随分幼く見える。…なんか、ちょっと可愛いかも。
「おかえり、シズちゃん」
俺の言葉に我に返ったようで、シズちゃんは一瞬怒りそうな表情になって、それからなんだかホっとしたような顔をしたと思ったら、また眉根に皺を寄せていた。ふふ、忙しいねシズちゃん。
きっと、俺がいるのが不快で、でもこの雨の中どうしているかちょっと心配とかしちゃってたから一瞬安心して。そんな自分にムカついた、って所かな?観察から得られた情報を整理していると、湿った毛先から水滴が落ちてきた。うっとおしいなぁ、と首を振れば目の前のシズちゃんはハァ、と溜息をついた。
それは何に対する溜息?
殺意を昇華しきれなかった溜息?自己険悪の溜息?それとも、しつこい俺への溜息、かな?
どれでもいいよ。どうでもいい。
「とりあえず、寒いんだけど?」
ニャア、と可愛らしく鳴けばこのドアが開く確率はぐんと高くなる。
暖かい部屋に入れるならば、他の事はわりと、どうだっていい。今はね。
「シズちゃん、この部屋寒い」
「当たり前だろ、今帰ってきたんだから」
寒い、寒いと連呼する俺にイラついたのかシズちゃんはエアコンのスイッチを入れた後、俺をひょいっと持ち上げた。まさか、今更捨てる気か?そう思ったのもつかの間、シズちゃんはスタスタとどこかへ歩いていく。昨日、俺が右後頭部を強打した現場へと――
「まさか、風呂?」
「こんだけ濡れてたらそれしかねぇだろ。てか、お前が歩いた後水がすげぇ垂れてるんだけど」
ピキリと、血管を浮かばせかけたシズちゃんに「シズちゃんの歩いた後の方がもっと本格的な水たまりだよ」と告げれば、空っぽのバスタブの中に放り投げられた。続いてシズちゃんは淀みない仕草で蛇口を捻る。お湯を溜めるつもりらしい…けど、ちょっと待って。四方を高い壁に囲まれ、その上お湯が注がれる現状ってこの身体だとかなり怖いよ?古来の水責め処刑に似たものを感じるのは俺だけかい?
「し、シズちゃん!」
「あー。なんだよ?」
布が擦れる音がして、シズちゃんが服を脱いでいるのが分かる。濡れた服が肌にまとわりつくのか、時折舌打ちが聞こえてくる。でも、そこらへんのイラツキも本格的にどうでもいい。
「シズちゃん、俺が溺れる前に早く来てよ!」
「は?猫って泳げるだろ?」
猫が泳げるかなんて俺は知らない。というか、浴槽に湯が溜まりきった時の水深を人に換算すると、かなりのものになるって君気付いてないだろ?!
「しーずーちゃーんーー!!」
「はいはい」
バスルームに入ってきたマッパの男の顔を見た時、俺が心底安心したのは近年稀に感じるレベルの屈辱だった。次いで、支えられるような形でシズちゃんと風呂に入ったのも、同じくらいのそれではあったのだけど。
「あー…。」
「シズちゃん、オヤジみたいだよ」
まぁ、冷え切った身体にこの暖かさは確かに悪くないけど、ね。
「うっせぇ。あー、ビール持ってくれば良かった。ノミ蟲ちょっと取って来い」
「うん。ビール持って来れるくらいのスキルが今の俺にあったらシズちゃんなんかと風呂入ってないよね。ここ、かなり重要だよ」
「手、放すぞ」
嫌だよ、沈むって!という言葉を言う前に、シズちゃんは俺を支えていた右手を離して顔を洗い始めた。いやいや、待って、シズちゃん待って!
「すみません。シズちゃんのご厚意で風呂にまで入れてもらったのにホント、いやそのなんていうか、ごめん!」
「ん」
タオルを頭の上に乗せたシズちゃんに支えられ、俺の身体は再び安定を取り戻す。くそっ、なんだこの屈辱。
「お前、ずっと猫だったら可愛げあるのにな」
そんな事言いながら、柔らかく笑うシズちゃんを見て、俺の時が確かに止まった。…なにその顔、初めて見るんだけど。
黒い猫で良かった。
その時だけは、そう思った。
甘やかし過ぎはいけません
(殺伐な関係に慣れ切った身には、刺激が強過ぎます)