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【同人誌】残照の面影〈上〉【サンプル】

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「母上、母上、どうしたんですか?」
 眠ったままの母を、起こそうとする。しかし、決してそれが聞き入れられることはない。
 泰衡は、ははうえ、と呼びかけ続ける子に手を伸ばし、脇から抱き上げるように、こちらに引き寄せた。膝に乗せてやると、不安げな顔で、子どもはこちらを見上げた。
「父上、母上がねむったまま、起きてくれません」
 しかしその目には、もう涙が湛えられている。全てを大人が聞かせてやらずとも、もう理解しているのかも知れない。ただ、受け入れられないだけで。
 額を撫ぜて、目を閉じさせる。
「ちちうえ」
 呼ぶ声に、ああ、と息を吐くような声で応える。
「もう、母は二度と目を覚まさない」
 教えてやると、周囲の女房の嗚咽が聞こえた。彼女らの方が、余程重く悲しんでいるようだ。
「……どうしてですか」
 子に訊ねられ、彼はただ、事実を告げるしかないのだった。
「死んだからだ」
 もう、この子は死については知っている。それまで、円らな瞳に湛えられていた涙が、端から零れ落ち、泰衡の衣裳を濡らした。
 ははうえ、と泣き声が大きく彼女を呼んでいる。
 泰衡は呼ばない。呼ぶ意味もない。
 息の詰まるような感覚が、彼の胸を締め付けている。
 これが運命だと言うのだろうか。疑問が湧いてきては、彼の思考に絡みついている。けれど、どんな疑念を抱こうとも、この死は変えようのない現実だ。
「ははうえ、ははうえ、まんじゅのそばにいてください、ははうえ」
 泣いて母の亡骸に縋ろうとする我が子の頭を撫ぜ、それから、妻の冷たくなりつつある額から前髪までを指先で辿り、息をついた。
 人の生死は、誰にも変えられない。
 ならば、受け入れざるを得ないではないか。


***********(中略)**************************


「父上、元気を出してください」
 なんと、我が子に励まされてしまった。
 逆だろう、この場合。父である自分の方が、子を気遣うべきだ。
 そうは思うものの、泰衡はそういうことが苦手なのだ。父にも兄弟にも、まして妻や子になど、どうしたら良いのか分からなくなることが、最近、多い。
「そうだな……」
 ただ、応えるしかなかった。その声も、ひどく掠れてしまっていた。
 万寿は、ふと思い立ったように、己の懐に手を入れる。何をしているのかと思っているうち、その手を泰衡の前に差し出す。
「お守りです、父上」
 その手に、何かが握られている。指の間からはみ出して、紐が垂れ下がっている。
「お守り?」
「はい。母上にもらったんです」
 母の生前の話をしているのだろう。
「父上にあげます。だから、元気を出してください」
 要らぬ、とは言えなかった。我が子の真心を、受け取らぬ理由もない。泰衡が手を出すと、万寿はその掌に、それを置いた。
 泰衡は、眉を顰めた。見たことのないものだったが、何なのか、知っているような気がする。
「これを、母からもらったのか?」
 はい、と万寿は素直に頷いてみせる。
「いつ頃、もらった?」
 もう一つ問いかけると、万寿は少しばかり、泣きそうな顔になる。どうしたのか、訊ねる間もなく、
「この前……」
 小さな声で、答える。
 言い難そうだったことを考えれば、それは、望美が病に臥した後のことだと分かる。
 万寿には、望美と会うことを禁じていた。女房たちにも、彼女の寝所に万寿を入れぬよう、命じていた。
「母に会いに行ったのか?」
 確認すると、万寿は数瞬迷ってから、これもまた小さな首肯を見せた。
 今さら、叱る気はなかった。母にどうしても会いたかったのだろう。以前から、この子は大人の目を掻い潜り、隠れるのが巧みらしいと聞いている。さすがに、父を相手にそういうことはしなかったが。
「来ちゃいけないって、母上は怒っていました」
「そうだろうな」
 己の病が、伝染性のあるものなら、我が子にうつしたくないと思うのは、当然だ。
「そしたら、母上がこれをくれました。母上がそばにいなくても、元気になれるお守りだって」
「そうだったか……」
 だから、万寿はこれを、泰衡に渡したのだ。望美がいなくても、元気を出して欲しい、と。
「これを、父が受け取っていいのか? 万寿、お前はこれがなくても、母のいない寂しさを我慢できるのか?」
 万寿は、父の言葉に耳を傾け、じっと父を見つめた。そして、躊躇を振り捨てるように首を振ると、
「はい、我慢します」
 はっきりと答えて、今度は泰衡にぎゅっとしがみついた。
 思えば、我が子と二人きりになったことは、数えるほどしかない。いつも、この子と顔を合わせるときは、望美が傍にいたのだった。
 だから、泰衡が抱きしめずとも、望美が泣く子をそうして慰めた。泰衡が笑いかけずとも、望美が不貞腐れる子を笑わせた。だが、もう彼女に頼ることはできない。
 泰衡も小さな我が子の背中を引き寄せる。妻を抱きしめるのではない、小さな小さな体を抱き上げるような形になった。
「ならば、これは父が受け取ろう。すまない」
 一層に引き寄せると、泣き声が微かに腕の中から聞こえた。


***********(中略)**************************


 そっと、御簾を払う。
「あっ、泰衡さん?」
 彼女はちょうど、階を上がったところだった。
「どうしたんですか?」
「そちらこそ」
「目が覚めちゃって眠れないから、庭に出てたんです」
「……そうか」
 声が聞こえた、とは言わずにおく。誰かと会話していたかのようだったが、はっきりしない。独り言だと言われれば、それまでだろう。
「泰衡さんも眠れなくて?」
「あなたがいないので、探そうかと思っていたところだ」
「えっ! そうなんですか? ごめんなさい」
 謝りながらも、何故か嬉しそうな笑みが、口の端に浮かんでいる。泰衡が望美を探そうとしたことを、喜んでいるに違いない。ともに暮らしてから、そういうことに、察しがつくようになった。
「じゃ、また寝ましょうか」
 何もなかったように、部屋に入ろうとする。泰衡の前を通りかかるとき、その目が潤んでいるように見えた。
「……本当に、庭に出ていらしただけか?」
 背中に、問いかける。
 一瞬、止まる。振り返る。笑っていた。
「心配しなくても、浮気なんてしませんよー。私、泰衡さん一筋なんですから」
 明るい声で、否定する。そういう意味で訊ねたのではない。眉を寄せた泰衡に、また、彼女は近寄ってきた。
 突然、腕組みする泰衡の両手を、彼女の両手が包むように触れた。
「何だ?」
「泰衡さん、愛してます」
 穏やかに微笑んで、彼女は口にした。
 彼女のこういった発言は、珍しいことでもない。だが、このときは泰衡も、戸惑った。
「存じ上げている」
 以前から何度も、聞かされてきた。知っている。
 そうですね、と望美は応じ、手を離して褥に横になる。
「おやすみなさい」
 二度目ですね、と笑いながら、彼女は眠る。
 泰衡も仕方なく、また眠り始めた。


***********(中略)**************************


 まだ赤い顔は、人間よりも動物のようで、父母のどちらに似ているのか、よく分からない。