白い薔薇と少年少女
男子学生たちは互いに顔を見合わせ、ひゅう、おっかねえ、と囃し立てる。
マイは後ろの二人を振り返って、耳打ちした。
「あなた方、学校へ戻って、守衛さんか先生を呼んでいらっしゃい」
すぐそこの角を曲がれば、学園の生徒なら誰でも知っている通用口がある。この時間なら誰かつかまるはずだ。
下級生二人は不安げにマイを見つめ返すと、ぐっと涙をこらえて頷き、手を取り合って駆け出して行った。
「おいおいお嬢さん、俺たち、ちょっと遊ぼうよって言ってただけだぜ」
「そうそう」
下卑た哄笑が波のように起こる。マイは眉をしかめた。
「それとも何かい、あんたが代わりに俺らと遊んでくれるってのかい?」
「いいねえ、よく見りゃ、ずいぶんと上玉じゃねえか」
言いながら一人がマイに顔を近づけ、腕を伸ばしてくる。
「よしなさい! 触らないで!」
振り払った手を、別の一人に掴まれそうになったそのとき―
―一番後ろにいた男子学生が、ぐふっ、と呻き声を漏らして倒れ込んできた。他の二人は不意を突かれて、しばし振り返ったまま唖然とする。後ずさって顔を上げたマイの視線の先には、小柄な黒ずくめの姿があった。
リナだ。
おそらく武器に使ったのであろう立派な植木鉢を、リナはごろんと足元に投げ捨てた。気を失って伸びた男子学生の体の上に、花びらと土塊がぐじゃぐじゃと散らばっていた。
「……なんだ、このやろうっ!」
しばし呆気に取られていた男子学生の一人が、ようやくリナに掴みかかろうとする、それよりも一瞬早く、リナは小柄な体を生かして相手のふところへ飛び込む。そうして、鳩尾に強烈な肘鉄の一撃を喰らわせた。
「ぐええっ」
体を折り曲げて咳き込む仲間の姿を目にして、残った一人は何の言葉ともつかない怒声を上げる。リナは混乱した相手のでたらめな拳をするりと避け、マイの腕をぐいと掴んで、言った。
「逃げるぞ!」
何が何やら分からないままに、強く腕を引かれてマイは駆け出した。たなびいた長い髪の毛を男子学生の腕が一瞬掠め、ひやりとした。リナは道端の金物屋の店先に停められた自転車に跨がり、戸惑うマイを後ろに座らせて、
「おっちゃん、借りるぜ!」
店の奥に向かって一声掛けると、勢いよく自転車を漕ぎ出した。
自転車で二人乗りなどしたことのないマイは、無我夢中でリナの体にしがみつく。背後から、なんだなんだ、と、金物屋の店主のものらしきダミ声がした。
程なくして、長い下り坂に差し掛かった。自転車はいっそう勢いを増して、転げ落ちるように坂を下っていく。片手で学生帽を抑えながら、リナはひゅうー、と声を上げた。
下りのあまりの勢いと、向かい風の強さに、体がばらばらに壊れてしまいやしないかしら、と思いながら、マイはぎゅっと目を閉じてリナにしがみついている。ほんの一瞬だけ瞼を開けると、長い坂の下、家々の建ち並ぶ向こうに、川の水面がきらきらと光って見えた。
やがて道はなだらかになっていった。気づけば背後からの怒声も聞こえない。あの男子学生、追ってくるのを諦めたか、それとも金物屋の店主や、下級生たちが呼んできた教師に見つかって逃げていったか。いずれにせよ、もう大丈夫だと、マイは安堵して胸を撫で下ろす。
リナはそのまま自転車を漕ぎ続けた。川の傍まで行くと、マイを降ろし、自転車を道端に停めて、自分はさっさと河原の芝生へ降りていった。マイもその後を追う。
やりくちはいささか乱暴だったものの、助けてもらった礼を告げなければと、マイが口を開いたそのときだった。
リナは河原にどっかりと胡座をかいて腰を下ろし―いかにも手慣れた様子で、ポケットから煙草を取り出し、口に咥えているではないか。
「まあ!」
礼を言うのも忘れ、マイは唖然としてしまった。リナは平然としてマッチを擦っている。
「あなたったら、なあにそれ」
「なんだ、そんなに煙草が珍しいのか? お嬢さんだな」
「あなたこそ、すっかり不良になっちゃったのね」
「そっちだって、お嬢さんの癖に随分とお転婆じゃないか。大きな声で不良どもに喧嘩売ってさ。薔薇さまが聞いてあきれるね」
マイは顔を赤くしてぷっとむくれ、その場に座り込んだ。結局、礼を言う機会を逃してしまった。
リナはふうーっと長い息をつきながら、煙草を吸っている。白い煙が、マイのいるのとは逆側の、風下の方へ流れていく。学校の中にいるときよりも、リナは寛いだ様子で、いつものように近寄りがたい雰囲気を漂わせてはいなかった。
先ほどはありがとう、と切り出す機会をなんとなく掴めずに、マイはきらきら光る川面を黙って眺めていた。ときおり水鳥が舞い降りては、パシャ、と飛沫を立て、魚を捕まえてまたどこかへ飛んで行く。
「空」
「え?」
不意にリナが呟いて、マイは隣を見る。リナは両脚を投げ出して天を仰いでいた。いつのまにか、煙草を吸い終えてしまったようだった。
「空、高っけぇなぁ……」
そう呟いた言葉の端に、昔のままの北の訛りがあるのが感じられて、マイは思わず目を細める。
リナはそのまま、ごろりと大の字に寝転がった。マイも真似して寝転がった。両手を大きく広げてみると、指先がこつん、とリナの指に触れた。
空はほんとうに、雲一つなくどこまでも高かった。吸い込まれそうな青を眺めているうち、ふとマイの胸に、いままで感じたことのない思いが湧いてきた。
―わたしは、いま学園の薔薇さまで、この子は不良で、けれど、来年のいまごろは、どうしているのかしら。卒業をして、別のどなたかが薔薇さまと呼ばれるようになって、わたしは薔薇さまではない、ただの大人になっていって。
この子も、そうなるのかしら。いつか髪を伸ばして、北の言葉でも男の子の言葉でもない、ふつうの女の人の言葉を使うようになって。
そうしてお嫁に行ってしまったりするのかしら。
マイは首を傾けて隣を見る。リナは学生帽を顔の上に被せていて、起きているのか、寝ているのか分からなかった。
互いに触れ合ったままの指を、マイはそっと絡めてみた。するとリナも、少しだけこちらに顔を傾けた。伏せられた学生帽の下から、片目だけが覗く。
なぜだか、少し悲しそうな目をしている。
マイは思う。わたしたちはいつか、幼かったころにも、こんな風に指を繋いで見つめ合ったことがあった気がする。
それは、神さまのような見えない何かへ向けて、二人でお祈りをすることにも似ている。