土曜のお昼の親子丼
「……鍵、やっぱりもう一度、欲しいです」
「なんで」
鍵な。銀八はあえて素っ気なくそう問う。ここが核心だということはわかっていた。
「週末だけだと、正直、追いつかないから」
「は?」
追いつかない? 頬を上気させた桂は訝しげな顔つきの銀八を見据え、訴えるように言った。
「掃除とか、洗濯とか、週末だけやっても片付かないんです」
「……あのなぁ」
空になった丼をテーブルの上に置くと、それを片付けるためだろう、条件反射のように桂が立ち上がった。思わずその手を掴んで、もう一度座らせる。がさがさとした感触に驚いて、まじまじと手の内を覗き込んだ。水仕事のせいか、だいぶ荒れている。桂は何も言わず、銀八にされるがままになっているが、触れている手から痛いほどの緊張が伝わって来て、たまんねえなあ、と思いながら銀八は言った。
「お前は俺の母親でも、家政婦でもないんだから、こんなになるまで頑張る必要ないの」
ぎゅ、と強く握って、それから離す。
「家の用事させるために来させてるわけでもないし」
桂は解放された手をだらりと下げ、俯く。やがて呟いた。じゃあ。
「じゃあ、……」
つけっぱなしになっていたTVの音がうるさくて聞き取れない。銀八は手元に転がっていたリモコンの、消音設定ボタンを押す。いきなり静かになる部屋に、アパートの下を子供たちが何かを大声で言い合いながら通り過ぎるのが聞こえてくる。
正座をした膝の上で拳を握りしめて、俯いている桂の、つむじが見える。ついそれを突きたくなって、俺は小学生かと可笑しくなった。触れたいという欲求を、そういう風にすり替えて、すぐに逃げを打てるように自分を安全な場所に止める、それを無意識に行えるのは性的自覚のない子供のうちだけだ。
思い切って顔を上げたらしい桂は、ちょうどそんなことを考えて頬を緩ませている銀八を見て、また、泣きそうな顔をした。その唇が何かを言いたげに小さく震え、それを見ながら銀八は言った。
「もう少し、お前、待つ気ある?」
「……何を、ですか」
生真面目に問い返してくる桂に、咄嗟に、たじろぐ。何を。そう直球で来られると、説明するのは難しい。なんだか複雑なこの胸のうち。ずり落ちかけた眼鏡を押し上げて、鼻の付け根のあたりをかりかりと掻く。
「俺も困ってんだよ、日々。どうしたら一番いいのか」
テーブルの隅に乗っていたタバコとライターを引き寄せる。かちかちと、つきの悪いライターでなんとかタバコに火をつけ、はあ、と大きく煙とともに息を吐き出す。
「…だってお前、やっぱり俺の生徒なんだもん。それをナシにして次には行けないっつーか」
「……」
「お前の作る飯美味いし、毎週来てくれんのも嬉しいし、まあ、それ以外にもイロイロ思うところはあんだけどさ」
節が白くなるほどきつく握りしめられている桂の拳を宥めるように、その上に手を置く。さほど大きさは変わらない。
「大人には大人の事情があったりしてさ、それ、結構重要だったりするから」
お前にとっても、俺にとっても。そこまで付け加えられるほど、厚かましくはないけれど。ゆるゆると、ほどけていく桂の手の指の間に、自分のそれを絡ませる。
「もうちょっと、待ってくんねーかなァ」
週末婚みたいな今の状況は、結婚願望などないはずだった銀八にとってもなかなかに楽しくて、このままやってゆきたい気持もあるのだが、今はそうも言っていられない。ここで線を引いておかないと、焦った桂にどこまでも踏み込んでこられる気がしていた。そして一緒に深みに落ちて、得体の知れないところまで。そうなってしまえばどんな言い訳をしようにも、きっと世間様に顔向けのできない身分になってしまう。
一応俺はこいつよりだいぶ長く生きているわけだから、そうなる前に、俺がどうにかしないと。そんな風に思う自分はもう、十分に桂に感化されて真面目キャラになってしまっているなと思うと、可笑しい。
どうせあと数ヶ月で桂は高校を卒業する。そうすればこの厄介な状況も終わるのだ、そう先を急ぐ必要もない。
指の腹で、祈るような気持ちで桂の手のひらをひっかくように撫でると、さっきまでの泣きたいような顔に、戸惑いを滲ませて、桂は小さく微笑んだ。
「ちょっとって、つまり、卒業まで?」
「まあ、…そうなるか」
桂は頷いた。ぎゅ、と手を握り返されて、少し安心する。
「わかりました。…けど、ひとつ聞いていいですか」
「何を」
「先生は、俺のこと、好きですか」
きれいな顔できれいな声で、桂ははっきりとそう言った。銀八は自棄になり、即答してしまう。
「好きじゃねえ野郎の手なんか握らない」
ああもう、結局言葉にさせられる。
「わかったよ、お前は。…たまんねーなァ」
桂はもう笑っている。こいつは普段あまり笑わないから、たまにこうやって見せられる笑顔にひどくほだされる。笑みを含んだ柔らかい眼差しに促され、不貞腐れながらも銀八は言ってやった。
「ちゃんと、お前のことが、好きですよ」
とうとう好きだと言わされるわ、でも自分から、当分手は出せないよ的宣言はしてしまうわ、蓋を開けてみれば銀八のメリットになることはひとつもない。桂は立ち上がり、足取りも軽くテーブルの上の食器を台所へと運んで行く。その楽しげな背中を見ているのがなんだかすごく気恥ずかしくて、銀八はごろりと畳の上に横たわると、再びリモコンを取り上げ、消音モードを解除した。たちまち賑やかだが白々しい笑い声がTVから溢れ、部屋中を騒がしく満たした。