あなたと会える、八月に。
◆8
そして翌日の午後。彼女たちの不安どおり、ロザリアの父はこの『二十五歳の青年』に完膚無きまでに痛めつけられることになる。それどころか彼はチェスに夢中な父に代わり、こちらはともすれば泳ぐことに夢中になるロザリアのタイムキーパーまできっちり務めた。
「ロザリア! 時間だ!」
彼の声はよく通る。皆が振り返り、その声の主を見て驚いているのを、海の中から小さく「はぁい」と言いながら上がりつつロザリアは何人も見てきた。
ロザリアがテントに帰る途中で、娘の名を呼ぶ声を聞きつけて、こちらは制限時間のないロザリアの母が合流してきた。
「お父様はお可哀相に……かなり、やられていたわよ」
言葉とは裏腹に、全く同情している様子もなく母が笑って言った。
「お父様ってば……」
テントに戻ってみると、声の主はさすがに砂浜のテントの中では暑いらしくジャケットを脱いでシャツ姿になっていた。しかも袖口のボタンは外されていた。それでも襟の方はきっちり留められていたが。
「チェックメイト」
「あっ!」
自分の額をパシッと叩きながら、父は自分の失態に愕然としていた。
「そなたは詰めが甘過ぎる」
ロザリアはぎょっとした。
ゲーム上のこととはいえ、お父様に向かってそんなことを!
文句を言おうとしたロザリアを、母が肩を叩いて抑えた。
「よく言われるよ」苦笑して父が言った。「君のように情け容赦なくできれば良いのだが」
意外なことに、そう言われたとたん、自信に満ちていたジュリアスの表情が一瞬曇った。けれどそれはまたすぐに素面に戻った。
「私も……よくそう言われる」
明らかにそう言われたくないような言い方になってしまったのが不本意だったのだろう、ジュリアスはぼうっと二人のやりとりを見ているロザリアを見た。
いきなり目を向けられたのでロザリアは少し緊張したが、言うべきことは言わねばと思い、「声をかけてくださって、ありがとうございました」と言って頭を下げた。
「わたくしからも御礼申し上げます」ロザリアの母も同じく頭を下げると夫を見た。「本当に夢中になると時計を見てくださらないんですからね」
「ああ、悪かった。なにせ、次の手を考えるのに必死だったものだから」
謝りつつも悪びれた様子がないので、横でジュリアスが笑いつつ、ロザリアに声を掛けた。
「よく泳いできたか?」
「ええ」深く頷くとロザリアはにっこりと笑った。「でもあと十分ぐらいあればもっと」
「二十分という約束であろう? ならば守らねばな」
「はぁい」
内心ロザリアはジュリアスが、父よりずっと厳しいと思った。
「だから」母が笑いながらタオルでロザリアを包み込みながら言う。「そのように口をとがらせてはいけませんよ」
「ジュリアスさんも海にお入りになればいいのに」タオルで包まれたロザリアは、顔だけちょこんと出している格好でデッキチェアに腰掛けつつ言った。「気持ち良いですよ」
「ああ」ふっと笑ってジュリアスは言った。「水着を持っていないし、泳いだこともないから、たぶん私は泳げないだろう」
「それでしたら」
母が言おうとしているのを、やはり父が止めた。
「私のチェス仲間を奪うのはやめてくれないか。せっかく良い相手になってもらっているのに」
「それでは……」驚いたようにジュリアスが言った。「明日もここへ来ても……良いのだろうか?」
「願ったりだ……君さえ迷惑でなければの話だが」
ロザリアは、そう父から言われたときのジュリアスが昨日今日のうちで一番嬉しそうに笑ったと思った。
「ねえ、ジュリアスさん?」
「ジュリアス、で良い」
機嫌よく彼はそう言った。
「では……ジュリアス」
「何だ?」
「来年の八月もまたここへいらっしゃる?」
「え?」少し考えてジュリアスは頷いた。「よほどのことが起こらぬ限りは」
ロザリアは父と母を見た。二人とも微笑んで頷いてくれた。
「来年の八月……十六日も、わたくしたちとお祝いしましょうよ」
「祝う……?」
ロザリアの申し出に面食らったようにジュリアスは言葉を漏らした。
「私の誕生日を、そなたたちが祝ってくれると言うのか?」
「わたくしももう夏はここが良くてよ、あなた」
後押しするようにロザリアの母が言い、その言葉に父が頷く。
「そうだな、次の八月には私のチェスの腕前も少しは上がっているだろうし」
そうしてジュリアスは、先程よりもはるかに素敵な笑顔をロザリアに見せた 。
< 第2章 12 歳 - 了 - >
作品名:あなたと会える、八月に。 作家名:飛空都市の八月