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飛空都市の八月
飛空都市の八月
novelistID. 28776
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あなたと会える、八月に。

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◆1

 わたくしが生まれ、物心ついて以来経験したことのない激しい嵐の中、去年免許を取得しただけで放置していたままのエア・カーを繰る。
 わたくしは、この荒天の原因を知っている。
 十六歳−−もうすぐ十七になるこの小娘に告げられた事実はあまりにも重く、わたくしを押し潰そうとする。わたくしは行かなければならない。行きたかった気もするし、その一方で、行くことになってしまったことに対し愕然としている。だからこうして、乳母が泣き叫んで止めるのも聞かずエア・カーを走らせ、空から突っ込むようにしてあの懐かしいホテルの前へと降りた。
 目の前にはいつもの蒼く凪いだ海はなく、砂浜と柵を越え、ホテルの前の道路にまで白く大きな波しぶきを散らしている。
 人の姿が見えた。
 それが誰なのか、横殴りに降りつける雨に霞んではっきりとは見えないけれど、わたくしにはわかっている。
 彼。
 八月にだけ、会える人。
 乳母か、あるいは父からの連絡を受けたのか、彼はホテルの玄関の前でずぶ濡れになって立っていた。未だかつて、あれほど激昂した表情の彼を見たことがない。エア・カーの鍵を駆け寄ったホテルのドア・マンに預けつつ、わたくしはごくりと唾を呑み込んだ。そして、バシャバシャと音を立てて降り続く雨の中、その凄まじい視線に晒され、わたくしは呆然と立ち尽くす。
 雨はあっという間にわたくしの躰をも呑み込むように濡らし、まるで水の中に浸っているような感覚を与える。
 水の中……海の中。
 海の中はとても気持ちが良いのに。一緒に入りましょうよ。
 わたくしはよく彼に言っていた。去年もそう言い、今年、そして来年もまた言えると思っていた。
 でももうおしまい。だから、わたくしはこうして来たのだけれど。
 わたくしが動かないことに業を煮やしたのか大股で近づくと彼は、決して強くはないものの−−たぶん懸命に抑えたに違いない−−わたくしの頬を打った。
 「なんという無茶をするのだ! どれだけそなたの父や乳母が心配しているか、わからぬそなたでは……」
 わたくしは怯まなかった。挑むようなまなざしを向けてわたくしは、彼の言葉を遮った。
 「もう来年は会えないの!」
 唐突にそう言われ、彼はいからせた肩を少し降ろした。
 「もうずっと会えないの! もうあなたのお誕生日を……祝えないの!」
 畳みかけるように……あるいは唱えるようにわたくしは言い続ける。
 「これで最後なの! だから……お願い」
 限界だった。決して泣くまいと思ったのに。けれど雨と波の飛沫とで濡れたことが今は幸いしている。
 そう……わたくしは泣いてなどいない。きちんと伝えなければならないのよ。
 踏み出すとわたくしは、思い切り自身を彼の胸にぶつけた。彼には思いがけないことだったのだろう。勢いでズッ、と彼の躰が後ろに下がった。
 「ロザリ……」
 「……今夜、一緒にいて!」
 私の肩を抱こうとしたに違いない手の動きが止まった。顔を彼の躰に張りついたシャツにこすりつけるようにしながらわたくしは叫ぶ。
 「ジュリアスでなければ嫌なの! ジュリアス以外は嫌なの!」
 そして、腕を彼の背に回し、ぎゅっと抱き締める。温かい−−熱い体温、それと硬い胸板と背骨とをまともに感じてわたくしは緊張のあまり震えてしまっていた。
 はしたないとわかっている。
 とてもふだんのわたくしが心がけ、他の人たちからも認められているはずの『淑女』としてのふるまいとは……思えない。けれどこうでもしなければ、わたくしは一生後悔する。もうわたくしの−−ロザリア・デ・カタルヘナとしての八月は来ないかも知れないのだから。
 肩を掴まれた。
 ぎくりとしてわたくしは、殊更に強く彼の躰を捕まえようと腕から指先にかけての力を込めた。けれど女の身であるわたくしの力など、たかが知れている。簡単に剥がされてしまった。
 「ロザリア」
 おずおずと見上げると彼は、明らかに困惑しているような顔をしていた。それはそうだろう。わたくしは微かに失望した。無茶を言っていることは重々承知している。その一方で、この切羽詰まった状況を甘美な膜で覆い、その中に身を沈めたく思う自分がいる。けれど、視線の先にある彼の表情から、わたくしだけでなく彼もそうに違いないという……愚かな思い込みが色褪せる。
 そして発せられた言葉は、そのような落胆をもあっさりと一蹴する−−つまらない……ありきたりなものだった。
 「ロザリア。私はそなたのことを、年の離れた妹のようにしか思えない」
 呆気なく終わる。
 だが滑稽なことに、一気に冷えた頭でわたくしが考えたのは、いったいジュリアスは何歳なのだろうということだった。