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飛空都市の八月
飛空都市の八月
novelistID. 28776
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あなたと会える、八月に。

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◆2

 玄関ではドア・ボーイがはらはらとした表情で手に何枚ものバスタオルを持って立っていた。わたくしの肩を抱きつつぐいぐいと押し出している彼−−ジュリアスはそのタオルの一部を受け取った。そしてばさりと大きめのタオルをわたくしの頭に被せると、いきなりのことでわたくしが狼狽えている間にフロントへ向かい、何か告げている。父に連絡を取るよう言っているに違いない。わたくしはタオルを取ると、それを手に握りしめたまま同じくフロントへ駆け寄った。
 「よけいなことはなさらないで! わたくしはこちらに出かけると申してきましたもの!」
 「親の許可を得ぬまま、な」
 情け容赦なく断じるとジュリアスは「後で私から連絡すると言ってくれ」と早口で告げ、再びわたくしの躰を押しやり、フロントの片隅にあるソファへ押し込むようにして座らせ、自分はわたくしの目の前で片膝をついた。
 ふと、どこかで同じような姿を見たことがあったような気がした。
 「どうした、ロザリア」
 わたくしの想念を破り、真正面から蒼の瞳がわたくしを貫くようにして見据える。
 「だから」声が上ずる。わたくしはわたくしを懸命に鼓舞する。負けてはならない、決して負けてはならないと。「さっき言ったとおり」
 「どこかへ行くのか? そなたの父も乳母も、そのあたりの話は私にはしなかったが」
 それはそうだろう。とても一般の民には伝えられない。これは大変な秘密−−機密なのだから。
 「わたくしも言うつもりはないわ」
 彼は少しだけむっとしたように眉を顰めた。けれどわたくしはそれを黙殺した。何故なら、わたくしには他に言わなければならないことがあったからだ。
 「でも今晩は一緒にいてほしいの。わたくしを……抱いて……ほしいの」
 語末が掠れる。まさかわたくしが……この、わたくしがこんな風に男の人に……彼に懇願する時が来るなどとは思わなかった。嵐の中、突き抜けるようにまでして。
 けれどジュリアスは心底呆れたように−−少なくともわたくしにはそう見えた−−言い放った。
 「話にならぬな」
 「どうして!」
 思わずわたくしは同じく濡れた彼のシャツの袖口を掴んだ。夏の海辺でもきっちりとプレスされた……であろう長袖のシャツを着ているのは相変わらずだった。
 そうだ、彼はいつもこんな格好で八月にここへ来る。海に入ろうと誘っても、入ったことがないからと、にべもなく断られる。
 そして今もまるでそれと同じような口調で言う。
 「そなたを抱きたいとは思わないからだ」
 わたくしの一生の……唯一の願いを、海に入ったことがないから泳がない、と答えるのと同じように。
 わたくしは俯き、唇を噛みしめた。
 「毎年八月に私の誕生日を祝ってくれるそなたたち一家のことは、私としてもとてもありがたく、嬉しく思っている。とくにそなたは私の大切な」
 その途切れに、微かな期待と大方の諦めへの覚悟を胸に、わたくしは顔を上げた。
 「大切な妹のように思っている。だから」
 もうわたくしには、これ以上何も言うことはできなかった。粉々に打ち砕かれた望みとプライドの欠片を拾い上げる気力もなく、再び俯いた。
 それでも、わたくしは泣けなかった。ここで泣き叫べば、ジュリアスも折れてくれただろうか? いいえ、泣けば済むとは思わない。彼にそのようなものはきっと通用しない。
 ああ……後から思えばなんて恥ずかしいことをと思う時が来るだろう。けれど、わたくしなりに必死だった。だからこの今、この時に泣くことこそが、わたくしにとっての恥辱に値する。
 可愛くない……わね。
 そこまで思ったとき、両腕を掴まれ、ぐいと引き上げられてわたくしは立ち上がる格好になった。
 そして何も言う暇もなく、抱き締められた。湿ったシャツが頬に押し付けられ、再び熱い体温を感じる。濡れて冷えた躰にもはやそれは温かくて心地よい。先程の時とは異なり、わたくしは妙に安堵した。
 「許せ」頭上から声がした。「私にできることは、これが精一杯だ」
 とたんに、それこそ涙があふれ出そうになった。
 この人は正直だ。だからわたくしは信頼してきた。それがわたくしにとって良いこともあれば、今のように悪い……結果に終わることがあっても。
 そしてこの人は……優しい。
 海には入らないけれど、海で泳ぐわたくしを浜からずっと見守ってくれていた。彼がいると思うだけでわたくしは安心して泳いでいられたもの。
 彼の、彼なりの、少しわかりにくい優しさに、わたくしは何度も後から気づいて、ごめんなさいと繰り返した。そしてそれを繰り返す度にわたくしの心は彼に傾いた。
 それなのに。
 小さくわたくしは頭を動かすことで意思表示する。
 悲しいけれど、仕方ない。