あなたと会える、八月に。
◆15
対岸の方からジュリアスの声がする。どうやら子どもを先に連れて行くよう男に言っているらしい。男は、首座の守護聖自ら我が子を救ってくれたことに平身低頭で詫び、そして感謝し、子どもより先に尊い存在の彼を安全な場所へと言っているのだが、ジュリアスは子どもを優先しろと言って聞かない。
ロザリアの目に、立ち上がったジュリアスの足元が見えた。どうやら乗馬パンツ姿のままらしい。けれど裸足だ。それに上半身も裸。それらは、ジュリアスが自分の意志で川に飛び込んだことを如実に示していた。
結局、男は折れた。自分が巻きつけてきたロープを外すと、ジュリアスに何か告げている。結び方を教えているらしい。そしてそこにあった木にロープをくくりつけると、川面を這うロープに掴まりこそしないものの、それを頼りにしつつ息子を背負ってこちらへ泳いで戻ってくる。
男は充分川のことを知り、泳ぎも達者なのだろう。川の中を行く親子の姿にロザリアは、ふと母のことを思い出した。
そう、たとえばジュリアスがお母様ぐらい泳げるのなら、わたくしだって何もこんなに。
「リュミエール様……」
「何ですか?」
「ジュリアス……様は」もう今さらという気もしたが、それでも何とか『女王候補』としての最小限の礼儀は尽くそうとロザリアは、ジュリアスの名に敬称をつけつつ続けた。「いったい、どれぐらいの距離を泳がれるのでしょう?」
何もこんなに、心配しないものを−−
「……そう……ですね」リュミエールは口ごもった。「息つぎがまだあまり、おできにならないのですが……」
「息つぎができない?」
眉をぴくりと動かしてロザリアが言う。
「あ、あの……ロザリア?」
リュミエールも、ロザリアの様子がおかしいことに気付いたらしい。少し心配そうな表情になってこちらを見ている。だがロザリアは、にこりともしないで告げた。
「具体的におっしゃっていただけませんか、リュミエール様。いったいジュリアス様はどれぐらい、泳ぐことがおできになるんですか?」
その間に、男とその息子が戻ってきた。そして男は、ジュリアスにのいる対岸に向かって手を振ってみせた。ジュリアスも軽く手を上げて応えると、木にくくりつけていたロープを解き始めた。
男は深々とジュリアスの方へ再度頭を下げると、リュミエールを見た。
「リュミエール様、あの、ジュリアス様とそのお嬢さんを儂の家へ……むさ苦しいところで申し訳ないのですが……女房に言って、すぐ温かい風呂を用意させますから」
「わかりました、どうぞ先に戻って早くその子を休ませてあげてください」
何度も頭を下げながら男とその息子は、この近くにあるらしい家へと戻っていった。
そしてリュミエールは、ロープを腰にくくりつけているジュリアスを見ると叫んだ。
「ジュリアス様!」
呼ばれてジュリアスがこちらを見る。
「先ほどのように潜水してください」頷いてみせるジュリアスにリュミエールはさらに付け加えた。「くれぐれも川の漂流物には気をつけて!」
リュミエールの言うとおり、確かに枝や葉などが川面を流れていく。まだ息つぎが不得手なジュリアスにしてみれば、下手に顔を上げて呼吸するよりはむしろ少し水面下を泳ぐほうがずっと滑らかに川を横切って進むことができるだろう。
リュミエールは川へ進み出たジュリアスの姿を追いつつ、岸にいる自分たちをつなぐロープに軽く手を添えて言った。
「……潜水はお上手なんですよ。意外と肺活量がおありで」
「リュミエール様」ロザリアもまたジュリアスを見つめ、ロープに手を添えようとしながら言った。「ですから……どれぐらい泳げるんですか? ジュリアスは」
また敬称をつけないで言ってしまった。しまったと思ったけれどロザリアは、それよりも、リュミエールと同じくロープに触れた手を慌てて引っ込めた。
指先の震えが治まらない。時折きしむように動くロープの先のジュリアスの躰が、そのままこの岸辺に上がらなかったら−−
リュミエールがロザリアの様子をいぶかしげに見ながらも、言葉自体は言いにくそうに紡いだ。
「まあこの川幅の倍ほど……ですが」
決して広く、長くない川の幅をたとえた答えを聞くなりロザリアは、すっ、とそこを離れて川へと向かい始めた。
「ロザリア!」
間にロープがあったためにリュミエールは、今度はロザリアを引き留めることができなかった。
「いけません、戻りなさい!」
だがロザリアはリュミエールの制止を無視して、再びワンピースの裾のレースに水が染み渡るのをそのままに、膝下ぐらいまでざばざばと入っていく。
そして屈むと、岸辺へと続いているロープを握った。
「ロザ……!」
駆け寄ったリュミエールが呼びかけたときにはすでに、ロザリアは力いっぱいそのロープを引っ張っていた。
「何をするのです、おやめなさい!」
だがロザリアは黙ったままロープを何度も引き寄せようとする。もっとも、向こうにつながるジュリアスの躰を少女の力で引き上げられる訳などないのだけれど。
とうとうリュミエールが背後からロザリアのロープを引く手を止めるべくその手首を掴もうとしたところで、ざばん、と勢いよく水しぶきが上がった。
「……急に引っ張るから驚いたではないか!」
川から出てくるなりジュリアスが叫んだ。そうして顔や首筋、背や胸にはりつく髪を鬱陶しげに払いつつ、腰に巻いたロープを解こうとしたところでそのロープを握っているロザリアと、その手を外そうとしているリュミエールとに目が合った。
「どうした……二人とも」
「ジュリアス様、あのっ……!」
声をかけようとしてリュミエールは、何と言って良いかわからず言葉を続けることができなかった。
ロープから手を離し、ロザリアが向かってきた。右手はワンピースの裾から離れ、心持ち背後に引かれている。
「来るなロザリア! 濡れてしまう!」叫ぶとジュリアスは、引き上げられた裾から剥き出しになったロザリアの膝を見た。「そなた、怪我をしてい……」
その先を、ジュリアスは言うことができなかった。
作品名:あなたと会える、八月に。 作家名:飛空都市の八月