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飛空都市の八月
飛空都市の八月
novelistID. 28776
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あなたと会える、八月に。

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◆40

 開いていたカードの上に、ぽとりと雫が落ちた。
 落ちた雫を慌てて指で拭うけれど、後から後から落ちてきて汚しかねないので、カードは閉じられ、その上から両手で庇うようにして覆われる。
 脇に立っていたジュリアスは、その様子をじっと見つめていた。
 「……ひ、ひと言も……」目の前でぽろぽろと涙をこぼす少女の、喉がひっく、と鳴る。「ひ……と言も、話せな……」
 「……すまないと思っている」
 はっとして少女−−アンジェリークは寝台から乗り出すようにしてジュリアスの方を向くと、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
 「ま、待って……ください、ジュリアス……様を責めてるんじゃ……」
 「ならばロザリアを」小さく嘆息してジュリアスは続ける。「ロザリアを……赦してやってほしい」
 しかし、なおもアンジェリークは首を振り続ける。
 「ち、ちが……」
 嗚咽<おえつ>のせいで途切れ途切れになる言葉を、ジュリアスは辛抱強く待ち続けた。やがて少し落ち着いてきたのか、アンジェリークは再び手に持っていたカードを開く。
 片側にフェリシアの花。
 そしてもう片側にはエリューシオンの花。
 「私……あのとき本当に……星の声しか……聞こえなかった……」
 ぽつり、ぽつりと、アンジェリークは話し始める。
 「だから……ロザリアの……ことは全然……考えなかった……」
 それは違う、とジュリアスは言いたかったのだが、話を遮ることは控えた。確かにアンジェリークはただひたすら星の声に専心していたけれど、あの状況では致し方ないことだった、とジュリアスは思う。
 「無視……しました……。情け容赦なく……切り捨て……ました……なのに」
 また感情の波が訪れたらしい。けれどジュリアスは、ただ黙ってアンジェリークを見守り続けた。
 「フェリシアとエリューシオンをずっと……見ていてくれて……こんな……」
 一気に気持ちの高波が押し寄せてくる。
 「会いたいです! 会って謝りたい! あんなに酷い仕打ちをしたのに、こんなに優しい贈り物を……!」
 悲痛な叫び声の後、アンジェリークはカードを持たない手の方でぎゅっ、とジュリアスの腕を掴んだ。
 「ジュリアス様、ロザリアに謝らせて! お願い、お願いします!」
 「謝って……それから、どうするつもりだ?」静かにジュリアスは言う。「補佐官にでもさせるか? それとも女官とか?」
 「あ……の、それは」
 言葉に詰まったアンジェリークの、自分の腕を掴んだ手の上に、もう片方の手でぽんぽんと軽く叩くようにしてジュリアスは告げる。
 「今、そなた自身が申したように……そなたはもはや、ロザリアを必要としていない」
 全て一人で片を付けた。
 守護聖と共に、というのはもちろん間違いではない。けれどその守護聖に指示を与え、全てを自分の采配で乗り切った。たまたま、フェリシアとエリューシオンの視察という役目をロザリアが自身に任じて遂行したけれど、こうして二つの大陸を有する新宇宙へ、旧宇宙からの移行が完了した今−−
 ジュリアスは、ロザリアがコラとやりとりしていたときのことを思い出す。
 『わたくしにはもう、聖地でできることは何もないの』
 あのとき、コラを諭すためとはいえ……あれほど気位の高い娘が他人に自分を否定するような言い方をしなければならなかった無念さを、ジュリアスはまるで自分のことのように噛み締める。
 「自分の存在価値が見出せない場所で生きていかねばならないとすれば−−それは」
 アンジェリークは再び首を、横に激しく振った。
 「わかって……わかっています! だから……謝りたい……っ!」
 「アンジェリーク」膝をつき、寝台にいるアンジェリークに目線を合わせてジュリアスは言う。「それではあまりにもロザリアが……」
 言いながらジュリアスは、さすがに目を伏せたくなった。
 「不憫<ふびん>だ」
 案の定、そう言った瞬間、アンジェリークの瞳からどっと涙があふれ出た。
 「ど……どうし……て……?」
 「ではそなたは、どう言ってロザリアに謝るつもりなのだ?」
 「それ……は」
 「そなたはそれで満足であろう。だがロザリアは……どうだ?」
 たぶん、頭の中でロザリアに向かい、言ってみたのだろう。
 言ってみて、わかったらしい。
 「……あ……」
 「だからもしもそなたが、ロザリアに対し謝りたいと思うのであれば……」
 そうしてジュリアスはゆっくりと立ち上がると、アンジェリークを見つめ、告げた。
 「どうか、『謝りたい』と思うことを、やめてやってはくれないか」
 涙はまだ流れていたけれど、大きな瞳をなおも大きく開いて、アンジェリークはジュリアスを見つめ返した。何かまだ言うべきかと思ったもののジュリアスは、それ以上は言わずにおいた。
 後はアンジェリークしだい。
 けれど……きっと、わかってくれるはず。
 「あの……」
 しばらくの沈黙の後、アンジェリークが呼びかける。
 「……何だ?」
 「いつか私……ロザリアに会えますか?」
 おかしな質問をするのだなと思いつつ、ジュリアスは答える。
 「そなたからはたぶん……いつでも」微笑んでジュリアスは続ける。「何故なら……ロザリアはそなたがこれから慈しみ育てる宇宙の、民の一人となるのだから」
 「そうですか……」
 先程までよりはずっと穏やかになった声音に気づき、ふとジュリアスがアンジェリークを見ると、なるほど、少し気分が落ち着いてきたのか、目がとろりとしている。仮眠をとった後とはいえ、さすがにまだ疲れが残っているのだろう。
 「しばし眠るが良い。何かあればすぐに起こすから」
 こくりと素直にアンジェリークは頷いて、瞼を閉じつつ呟くように言う。
 「謝るのは……やめます。でもせめて何か……このカードのお返しができたら……」
 「そうだな」ふっ、と笑ってジュリアスが言う。「ロザリアが、エリューシオンの民の如く空を仰ぎ、何か願うようなことがあれば……本人に知れぬようこっそり聞いておいてやるのも良いかも知れぬな」
 「あー、それ、いいですねー。こっそりとならロザリアに怒られないかも」目を瞑ったまま、アンジェリークもくすくすと笑う。「私に叶えられることだったら良いのになぁ……」