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別腹

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傾城街は差し込む西日にまだ慣れていなくて、黄色いセロファンにつつまれているようだ。電飾つきの人力車が着飾った遊女を紫色に浮かび上がらせながらすれ違う、通りのど真ん中を突っ切って、土ぼこりの中から一台の軍ナンバーが減速して駐まった。箱みたいな車体から剣を吊った一人の憲兵が降りてくる。往来を漂う躁状態が彼の周りだけひそまり、警戒と軽蔑と作り笑いが同心円状に薄くひろがっていくのを肌で感じる。何のおつかいだか知らないが、迷惑な。パトロールの休憩中だった自警団のリーダー、月詠は目を眇め、最後の一服をしてから近づいていった。

「えらくものものしいじゃござりんせんかえ旦那、ほかのお客さんが驚いてしまう」
憲兵が振り返る。顎の尖った潔癖そうな顔つき。飼養された軍用犬種みたいだ。
「大門をくぐればわっちどもの掟がすべて。どんな手帳も令状も紙くず同然の魔窟…、」

遊郭らしくないとみんなに言われる月詠のありんす語は、むしろ軍隊特有の言葉づかいに似ている。たとえば、一人称を“自分”と言ったり、語尾を“…であります”としめくくるような。憲兵のほうも特に艶冶を解する情操は教育されていないらしく、口上を妨げて言いたいことだけ言う。

「検査じゃない。捜査でもない」
横柄な態度はどこの星から来る兵隊も変わらない。わずかな親しみさえ惜しみ合う二人はまるで、うっかり中立地帯で出くわしてしまった交戦中の兵卒同士だ。
「ではなんの御用向きでござりんす」
真選組隊士は目を伏せ、一度口元を引き締めて月詠を見返した。そして聞き違いでなければこう答えた。欲望を満たすためだ。






あらためて頭のてっぺんからつま先までをすばやく点検する。少し年上くらいだろうか?制服モデルのような、退屈なほどにきれいな男だった。

真選組隊士はあまり吉原桃源郷を好まない。屯所を置くかぶき町の盛り場で遊ぶのが常で、そこでうさ晴らしができれば事足りるのだ。その仕事内容も含めて、月詠にはどこをどう取ってもからっきしのしろうと連中である彼らがこの町に姿を見せるとすれば、幕府の定めたガイドラインに従ってたまに巡回に来るときくらいだが、幕府の中央暗部を下部組織がチェックするのだから実質的にはアリバイ工作でしかない。ばかげた馴れ合いにしかつめらしく差し向けられるのは、テロリスト退治に活躍する栄誉を与えられなかった素直な隊士たちだ。

「どうした?みんな遠巻きだ」
「刀をさして歩いているお方と誰がまともにつきあえましょう」
目の前にいるのはまさにその典型だった。規則正しい集団生活を送り、画一的な心身を養う。金はあっても暇と、そして傷がない。
「心外だな。特別武装警察は江戸全域での二十四時間帯刀を保障されている」
そんな男が自分から身を持ち崩しに来た。
「とにかく急いでいる。今も先輩に代勤を頼んで来たんだ、これからどうしても乗らなくちゃならない列車があって…」
「来なんし。わっちは吉原桃源郷のコンシェルジュ、」

月詠は落ちてきた髪を耳に挟むと、町かどそれぞれの持ち場についている自警団の部下たちに目配せをし、しばらく客を護衛することを無言で知らせた。オーナーが代替わりしたとはいえ、非合法の町だ。下手に動くと飲み下されて出られなくなる複雑なこのダンジョンには、パラノイアックな過激派崩れもうようよ潜む。

「俺は満たされる?」
男は不安げで、少し媚びるような目つきをした。
「すぐにも。旦那は簡単そうじゃ」
ちょっと背中を押すだけで、天国に投げ入れることも地獄に突き落とすこともできるだろう。それに、あまりおもてをもたついてもいられない。ここにいるのは試し斬りにはうってつけの、リードの外れた幕府の犬だ。







夕刻のことで、二人の影は一分ごとに伸び、そのうち際限なく増え続ける人波と扇情的なイルミネーションの間に消えていった。
「天人統治下のここを訪れたかった。毎晩月夜だったというのは本当?」
「おや、検索でもかけて予習しておいでなんしたか?」
たしか月を称えて歌うという意味の自分の名だったが、結局いまだにわからない。それが閉め切られていた地下遊郭に四六時中浮かんでいたホログラムのことだったのか、開放後の今、そろそろ顔をのぞかせようという本物のことだったのか。

「きれいだったんだろうね」
しばらくすると、二人は傾城街をがつがつ歩いているばかりになった。アルコールとアルデヒドが舞い散るなか、遊女たちのふきこぼれるいくつもの見世を素通りした。月詠もそうなら、おかしなことにこの男までが他人ごとで、あらかじめ決められたコースをたどる、なんだか視察の随行でもしているみたいだった。さまざまなアトラクションのひとつひとつを簡潔に紹介するたびになるほどと頷き、そのサービス内容がどんなにエスカレートしていっても反応は変わらない。月詠は女郎と思ってばかにしているのかとすごんだが、逆にどうしてと聞き返されて、気勢をそがれてしまった。

「たくさん人がいるけど、みんな何してるんだろう?」
「世迷い言を。旦那と同じでおすものを」
「そうだが、」

通りの混沌へ溶け込むうちに気持ちがくつろいできたのか、月詠が一緒なのが安心なのか、男は勝手にしゃべりだして、たくさんの人声やスピーカーから流れる音楽に混じって途切れ途切れに耳に入る。荒っぽい真選組であわただしく過ぎていく毎日、覚えたスラングやきわどいジョーク、個性的な同僚たちのことや、たまの非番に彼らに連れ出され、知り合う看護士や女子学生たちとの関係に当惑気味なこと、なぜなら地元には両親の決めた許婚が待っているから。最近昇給したことを知らせたら親は喜んだ、それから、尊敬できる上官にめぐり合えたことも。造船所跡地を埋め尽くす勢いでネオンサインの管がグルグルと色を変え、バラバラな間隔で点滅していた。幻覚を見ている気になっているのかもしれない。彼の話は知らない誰かの思い出話のように散漫でとりとめがなかった。月詠の興味をひくものではまったくなかった、人は得て自分は得ない、その空洞にこそ彼女の魂は育ったから。重要な機密に通じていそうにもなかった。

「ぬし、何が足りないんじゃ」

来たくて来たのじゃろうが。この客はわずらわしいだけでなく、何か癇に障るところがある。月詠は歩くのをやめてキセル煙草に火をつけ、硬い声で促した。飲み終わるまでに決められないなら手近な娼館に放り込む。

「その気になればこの町は何でも満たす、さあ望め」
作品名:別腹 作家名:11111