別腹
男は立ち尽くして、不思議そうに月詠を見下ろしている。夕日を引き止められずに夜にもつれこんでいく吉原桃源郷の姿を鏡のように映し込んだ、ただそれだけの澄んだ瞳。
(どうして食べないの、ここにあるのはみんな食べ物だよ、)
そう責めようとして月詠ははっとする。男の瞳のパノラマに自分の顔も、額と頬の傷が、映っている。
反射的に左にうつむいた矢先、男がつぶやいたのが聞こえた。
『列車の出る時間だ』
顔をあげると、彼はいなかった。
煙のように消えた客を、あわてて探したがどこにもいない。箱のような軍ナンバーも、タイヤの轍のあとさえなかった。部下に連絡を取っても足取りはつかめない。開放されてからの傾向で気持ちがたるんでいるのか、だいたい部下たちは客の記憶すらあいまいな始末で、月詠はそれも苦々しかったが、確かに特徴のない男ではあった。
「さっきまでいたよ。バックダンサーみたいな真選組だろ?」
スーベニアショップで店番をしていた八歳の晴太が、男を見たといったので、やっとひと息できた。買い物をしていったそうだ。
「ああよかった、そのへんでメッタ斬りにされてんじゃないかって肝が冷えた」
「かわいい顔してえれえエグいの買ってっから、さすがのオイラもぶったまげたさ」
ショップ内は目に痛いくらいの明るさだ。それぞれにキュートな名前のつけられた商品の、色とりどりのサンプルが並び、動くものはにょこにょこと動いている。晴太はレジに片手で頬杖をついて、何かのペンダントだか鎖だかを指に引っかけてくるくるとまわしていて、
「篠原進之進。サムライみたいなのは名前だけだな。監察ってえと、階級としちゃどのくらいなんだろう、月詠姐わかる?」
客の首から掏りとった認識票を月詠に放ってきた。まだ悪い癖がでるようだ。日輪太夫に言いつけるよ、と叱る間もなく受け取った金属板はひやっとしたが最初だけで、すぐに手の熱が移った。晴太はどうやらものすごく賢くて、月詠のほうには読めない文字も多かったけれども、二枚式のドッグタグに、フルスペルの氏名、生年月日や血液型、なにやらのアカウントナンバーが刻まれているらしい。
「ちゃんと返しておやり」
こんなものでも首から吊っていない限り、あの男はいつまでたっても見つけてもらえなさそうだ。
「なに、あいつはどうせまた来るね」
この歳でこんな笑い方をする子はほかにいない顔で、晴太は投げ返したドッグタグをレジの引き出しにしまって、それから商品の洗浄方法を実演するためのハート型の洗面器に水を張り、もこもこと泡立てながら言った。あの手のにハマったら人間おしまいだもん、一生やめられない。…月詠がキセルに手を伸ばそうとすると、おそらく偶然だろうが、絶妙なタイミングで晴太がまた口を開いた。
「そうだ、こないだ万事屋の銀さんに会ってさ。あの人あんたにタバコやめさせたいみたいだな、」
かまわず火をつける。指から脂のにおいがした。向こうもかまわず続けている。姐さんよう、
「いっぺんここ出てみたら?もう出てってよくなってんだよ?、」
月詠はスーベニアショップを出た。一服したら、仕事に戻らなくては。
唇から光に濁った煙が、二十四時間営業の広大な不夜城を昇っていった。行方を追うと、薄く折り重なる横雲の間に本物の月がかすんでいた。きれいなのだろうか?もうホログラムの月はないし、比べられない。見上げたまま月詠は目を閉じた。かすかに耳鳴りがした。遠くで鳴る列車のベルみたいな。
子供でも晴太は廓の男だ。顔の傷痕なんか化粧で簡単に消せてしまうのだって知っている。でも、今の晴太より大きかったはずの月詠は幼くて、そんなの知らなかった。何のためかもわからないで、消えない傷をほしかった。
Болик и ЗИБ