私のお兄ちゃん
小さい頃、具体的に言えば、小学三年生くらいの頃まで、私には兄がいるのだと思っていた。
歳が離れていて、一人暮らしをしている。そんな兄がいるのだと。
けれどそれは違って、実際には近所に住む気さくな好青年。私の両親や近所の人からの印象はそんなだった。
あとは私の家が花屋で、その常連客であったらしい。そういえば、あの人は良く花を持っていた気がする。
そんな彼は、当然のように私の両親と仲良くなり、まだ物心の付く前の私を知っている人でもある。しかし両親の話ではそのときはまだ大学生だったようで、大量の花は何に使っていたのかは知らないという。
気にならないと言ったら嘘になる。けれど今となっては、何故必要だったのか問う手段もないから、どうすることもできない。
彼が兄ではないと知った年。いつの間にか彼は、この町から姿を消していた。
●
「ふぅ」
部屋の掃除が終わって一息つく。
掃除の最中に出てきた、小さい頃に撮られた写真。私とあの人が笑顔で二本指を立てている。
「すっかり忘れてたな」
それほど特別な思い出があったわけではない。私が兄と慕っていて、彼も私を妹のように可愛がってくれていた。そんなよくある話。
ただ何も言わずに私の前から去り、いつの間にか私の記憶からもいなくなっていた。
はずだった。
けれどそれは数年の時を経て、私にある衝撃の真実を突き付けてきた。
「何で初めて会ったときに気付かなかったんだろ」
正確には初めてというのとは違う。きっと再会したとき、と言うべきなのだろう。けれど私は気付かなかったし、もしかしたら彼も気付いていないのかもしれない。
だから、初めてでもいいや、なんて思ってしまった。
「……これからなんて呼ぼう」
昔は”お兄ちゃん”と呼んでいた。今は”プロデューサー”と呼んでいる。
私はどうするべきなんだろう。
いや、そんなの分かりきっている。
私がアイドルである以上、深く関わるべきじゃない。例え小さい頃に世話になっていたとしても、アイドルとプロデューサーだ。また兄として慕う。それは超えては行けない一線のような気がした。
●
「おはよう凛」
「……ん、おはよ」
あれから一週間も経つのに、未だに顔を合わせるのが恥ずかしい。今までこんなことなかったのに、思い出してしまってからというもの顔を合わせにくい。
プロデューサーも、普段とは違う私の反応を気にしているようで、いつもより積極的に話しかけてくるのだが、今はそれが迷惑としか感じられない。
どうしたものだろう。私が素っ気ない返事しかしないから、困って首を捻ったり、頭を掻いたり、そんなことをしてるのが見なくてもわかってしまう。
ほかのアイドルも、ちひろさんもいない。二人きりの事務所だと余計に気まずい。
どうしよう。プロデューサーが困っているのに、その原因は私なのに、何もできない。
それが、酷く悔しい。
もういっそのこと呼んでしまおうか。他の人にばれなければいいのだから。そうすれば、楽になれる。プロデューサーとも、もっと仲良くなれる。
あれ、もしかして良いこと尽くめじゃないかな。私が誰かのいるところでお兄ちゃんと呼ばなければ。私が昔のようにべったりくっついて甘えたりしなければ。
ただそれだけで、今みたいにプロデューサーを困らせる必要もなくなるのでは?
そう思うと、自然とプロデューサーの顔に視線を向けられた。
久しぶりに目を合わせた彼は、一瞬驚いた顔をして、でもすぐにいつもの優しい笑顔になった。
何で、これだけのことでそんな顔が出来るんだろう。
担当アイドルが顔を合わせてくれただけで、そんな喜べるんだろう。
私には、それが分らない。
「よかった、やっと凛が俺を見てくれた」
ただ、その一言がとても胸に響いて。優しく私を包み込んでくれて。やっぱり彼はあのお兄ちゃんなんだと、思わせる。同姓同名のそっくりさんではない。絶対に彼は……。
「ごめんね、お兄ちゃん」
自然と、そう呼んでいた。同時に、彼の胸に飛び込んでいた。
暖かくて大きなその身体を、抱きしめていた。
いつもだったら恥ずかしくてこんなこと出来やしない。けれど今の勢いに任せて、私はとんでもないことをしている。
分ってるのに、離れられない。離れたくない。
もっと強く、顔を、身体を押し付ける。ぎゅっと、ぎゅうっと。
プロデューサーの匂い。
お兄ちゃんの匂い。
懐かしい匂い。
「お兄ちゃん」
誰もいない。私たち以外には誰も。それだけで、私を止めるものは何もなくなっていた。理性なんかどこかに吹っ飛んで、ただただ懐かしい感触を堪能していた。
すると、彼の手が私の頭を撫で始めた。そっと優しく、昔のように。慈しむように。
「思い出したんだな。凛」
「うん」
それだけだった。
たったそれだけの会話だけで、それから暫く抱き合っていた。
優しい温もりに、包まれていた。
●
「で、どうしていまさら思い出したんだ?」
仕事に向かう車の中で、そう聞かれた。素直に写真を見つけて、それで思い出したと伝えた。
すると彼はため息をついて、また私の頭を撫でた。
「俺はさ、自己紹介した時に思い出してくれなくて、結構ショックだったんだぞ」
その口ぶり、まるで最初から私だと分かっていたような、そんなふうに見える。
「スカウトしたときはわからなかったけどな。名前聞いてすぐに思い出したよ」
「なら、そのときに言ってくれればよかったのに」
「いや、これからアイドルになってもらう相手が、かつて妹のように可愛がっていた子だったという事実をああまり広めたくなかったんだよ。ちひろさんに知られたら弄られることは間違いないし。あとは、トップアイドルになれる原石が俺を忘れてるならそれはそれでいいかな、って。そう思ったんだ」
なんだその理由は。
忘れられててもいいだなんて、そんなことあるわけないのに。
でも忘れていたのは私だ。そんなことを口にする権利なんてない。
私には、彼を責める資格なんて……。
「だけどやっぱり、思い出せてもらってよかったよ。昔みたいに俺を兄と呼んでくれて。甘えてくれて。すごく嬉しかった。俺はお前の兄を出来てたのかな、って思えて」
「うん、私にとってプロデューサーは、ずっとお兄ちゃんだったよ。急にいなくなるまで、本当のお兄ちゃんだと思ってたもの」
「なっ、そうなのか」
うん、と頷いて、気になっていたことを訊ねてみた。何で急に、いなくなってしまったのか。
「ああ、あれな。最初は誰にも挨拶出来なかったのが心残りだったんだよ。でも母親が倒れたって言われて、飛んで帰って。でも最期には間に合わなくって。それから暫く実家に引きこもり、気付いたら今の仕事を始めてた。そのときにはもう忘れてたよ。あの町ではすごく世話になったのにさ」
笑いながら、そんな悲しいことを言うなんて。
もうそういうふうに話せるようになった、ということでいいのかな。
両親がちゃんといて、今もこうして身近な人がちゃんといる私には、きっと分からないんだろうな。
「でも、また凛に会えて本当に良かった。俺もさ、本当の妹のように思ってたからさ」
歳が離れていて、一人暮らしをしている。そんな兄がいるのだと。
けれどそれは違って、実際には近所に住む気さくな好青年。私の両親や近所の人からの印象はそんなだった。
あとは私の家が花屋で、その常連客であったらしい。そういえば、あの人は良く花を持っていた気がする。
そんな彼は、当然のように私の両親と仲良くなり、まだ物心の付く前の私を知っている人でもある。しかし両親の話ではそのときはまだ大学生だったようで、大量の花は何に使っていたのかは知らないという。
気にならないと言ったら嘘になる。けれど今となっては、何故必要だったのか問う手段もないから、どうすることもできない。
彼が兄ではないと知った年。いつの間にか彼は、この町から姿を消していた。
●
「ふぅ」
部屋の掃除が終わって一息つく。
掃除の最中に出てきた、小さい頃に撮られた写真。私とあの人が笑顔で二本指を立てている。
「すっかり忘れてたな」
それほど特別な思い出があったわけではない。私が兄と慕っていて、彼も私を妹のように可愛がってくれていた。そんなよくある話。
ただ何も言わずに私の前から去り、いつの間にか私の記憶からもいなくなっていた。
はずだった。
けれどそれは数年の時を経て、私にある衝撃の真実を突き付けてきた。
「何で初めて会ったときに気付かなかったんだろ」
正確には初めてというのとは違う。きっと再会したとき、と言うべきなのだろう。けれど私は気付かなかったし、もしかしたら彼も気付いていないのかもしれない。
だから、初めてでもいいや、なんて思ってしまった。
「……これからなんて呼ぼう」
昔は”お兄ちゃん”と呼んでいた。今は”プロデューサー”と呼んでいる。
私はどうするべきなんだろう。
いや、そんなの分かりきっている。
私がアイドルである以上、深く関わるべきじゃない。例え小さい頃に世話になっていたとしても、アイドルとプロデューサーだ。また兄として慕う。それは超えては行けない一線のような気がした。
●
「おはよう凛」
「……ん、おはよ」
あれから一週間も経つのに、未だに顔を合わせるのが恥ずかしい。今までこんなことなかったのに、思い出してしまってからというもの顔を合わせにくい。
プロデューサーも、普段とは違う私の反応を気にしているようで、いつもより積極的に話しかけてくるのだが、今はそれが迷惑としか感じられない。
どうしたものだろう。私が素っ気ない返事しかしないから、困って首を捻ったり、頭を掻いたり、そんなことをしてるのが見なくてもわかってしまう。
ほかのアイドルも、ちひろさんもいない。二人きりの事務所だと余計に気まずい。
どうしよう。プロデューサーが困っているのに、その原因は私なのに、何もできない。
それが、酷く悔しい。
もういっそのこと呼んでしまおうか。他の人にばれなければいいのだから。そうすれば、楽になれる。プロデューサーとも、もっと仲良くなれる。
あれ、もしかして良いこと尽くめじゃないかな。私が誰かのいるところでお兄ちゃんと呼ばなければ。私が昔のようにべったりくっついて甘えたりしなければ。
ただそれだけで、今みたいにプロデューサーを困らせる必要もなくなるのでは?
そう思うと、自然とプロデューサーの顔に視線を向けられた。
久しぶりに目を合わせた彼は、一瞬驚いた顔をして、でもすぐにいつもの優しい笑顔になった。
何で、これだけのことでそんな顔が出来るんだろう。
担当アイドルが顔を合わせてくれただけで、そんな喜べるんだろう。
私には、それが分らない。
「よかった、やっと凛が俺を見てくれた」
ただ、その一言がとても胸に響いて。優しく私を包み込んでくれて。やっぱり彼はあのお兄ちゃんなんだと、思わせる。同姓同名のそっくりさんではない。絶対に彼は……。
「ごめんね、お兄ちゃん」
自然と、そう呼んでいた。同時に、彼の胸に飛び込んでいた。
暖かくて大きなその身体を、抱きしめていた。
いつもだったら恥ずかしくてこんなこと出来やしない。けれど今の勢いに任せて、私はとんでもないことをしている。
分ってるのに、離れられない。離れたくない。
もっと強く、顔を、身体を押し付ける。ぎゅっと、ぎゅうっと。
プロデューサーの匂い。
お兄ちゃんの匂い。
懐かしい匂い。
「お兄ちゃん」
誰もいない。私たち以外には誰も。それだけで、私を止めるものは何もなくなっていた。理性なんかどこかに吹っ飛んで、ただただ懐かしい感触を堪能していた。
すると、彼の手が私の頭を撫で始めた。そっと優しく、昔のように。慈しむように。
「思い出したんだな。凛」
「うん」
それだけだった。
たったそれだけの会話だけで、それから暫く抱き合っていた。
優しい温もりに、包まれていた。
●
「で、どうしていまさら思い出したんだ?」
仕事に向かう車の中で、そう聞かれた。素直に写真を見つけて、それで思い出したと伝えた。
すると彼はため息をついて、また私の頭を撫でた。
「俺はさ、自己紹介した時に思い出してくれなくて、結構ショックだったんだぞ」
その口ぶり、まるで最初から私だと分かっていたような、そんなふうに見える。
「スカウトしたときはわからなかったけどな。名前聞いてすぐに思い出したよ」
「なら、そのときに言ってくれればよかったのに」
「いや、これからアイドルになってもらう相手が、かつて妹のように可愛がっていた子だったという事実をああまり広めたくなかったんだよ。ちひろさんに知られたら弄られることは間違いないし。あとは、トップアイドルになれる原石が俺を忘れてるならそれはそれでいいかな、って。そう思ったんだ」
なんだその理由は。
忘れられててもいいだなんて、そんなことあるわけないのに。
でも忘れていたのは私だ。そんなことを口にする権利なんてない。
私には、彼を責める資格なんて……。
「だけどやっぱり、思い出せてもらってよかったよ。昔みたいに俺を兄と呼んでくれて。甘えてくれて。すごく嬉しかった。俺はお前の兄を出来てたのかな、って思えて」
「うん、私にとってプロデューサーは、ずっとお兄ちゃんだったよ。急にいなくなるまで、本当のお兄ちゃんだと思ってたもの」
「なっ、そうなのか」
うん、と頷いて、気になっていたことを訊ねてみた。何で急に、いなくなってしまったのか。
「ああ、あれな。最初は誰にも挨拶出来なかったのが心残りだったんだよ。でも母親が倒れたって言われて、飛んで帰って。でも最期には間に合わなくって。それから暫く実家に引きこもり、気付いたら今の仕事を始めてた。そのときにはもう忘れてたよ。あの町ではすごく世話になったのにさ」
笑いながら、そんな悲しいことを言うなんて。
もうそういうふうに話せるようになった、ということでいいのかな。
両親がちゃんといて、今もこうして身近な人がちゃんといる私には、きっと分からないんだろうな。
「でも、また凛に会えて本当に良かった。俺もさ、本当の妹のように思ってたからさ」