ロマンチストエゴイスト
ロマンチストエゴイスト
小高い山の石段をのぼり、一の鳥居をくぐり、さらに石段をのぼっていくと二の鳥居が待ちかまえていて、それもくぐると神社の境内だ。
長い歴史を持つ神社である。
神社の境内からは漁港が見える。
青い海が広がり、水平線から上は青空が広がって、それが頭上へと続き、さらにぐるりと半球を描いている。
眺めていると心が吸いこまれていきそうな雄大で美しい光景である。
神社の境内に、松岡凛と七瀬遙がいた。
ふたりの他に境内には人はいない。
正午にはもうしばらく時間があって朝の爽やかさをまだ残していて、だが太陽はゆっくりと天頂を目指して動いていて暑さが増してきているころである。
陽の光を浴びて境内の砂は白く輝いていて、まぶしいぐらいだ。
蝉の鳴く声がシャワーのように降りそそいでくる。
境内には木々が植えられ、その緑の葉は夏の生命力を感じさせるほど茂っている。
木の影が落ちて、少し涼しいところに凛と遙は立っていた。
凛も遙も引き締まった良い体つきをしている。
しかし、凛のほうが遙よりも身体が大きい。遙よりも背が高いから、だけではない。遙よりもきたえている分の筋肉がついているからだ。
昔よりも差がついた。
いや、差をつけられた。
そう遙は感じた。
あまり表情を浮かべることのない顔をいつものように揺らすことなく、凛との差を思った。
つけられた差はそのまま泳ぎのタイムへと反映された。
大会で同じプールで一緒に泳いで、自分は凛に負けた。
いや、負けた相手は凛だけではなかった。
県大会ですら自分のタイムを上まわる者が何人もいた。
そんなことは頭でわかっていたはずだったが、あのとき、はっきりと心にまで思い知らされた。
タイムなんかどうでもいい。
勝ち負けもどうでもいい。
ただ水の中にいたいだけ、泳ぎたいだけだ。
そう思う。
のに。
遙は幼かったころのことを思い出した。
市の大会で優勝した。
まわりから早いと称賛された。
ああ、そういえば。
『早いな。ほんとに小学生?』
そう話しかけてきた者もいた。
それは、今、眼のまえにいる凛だ。今とは違い屈託無くて、よく喋って、お調子者なぐらい明るかったころの凛だ。
市の大会に参加し、遙がフリーの百メートルで優勝し、凛がフリーと五十メートルと平泳ぎの五十メートルの両方で優勝したときのことである。
おたがい小学五年生で、違うスイミングクラブに所属していた。
そして、小学六年生の冬、凛は遙のいた小学校に転校してきて、遙のいたスイミングクラブにも入った。
凛が水泳の勉強のために海外に行くまでの短いあいだのことだ。
「……話ってなんだ」
遙は過去やそれにともなう思いを振りきるようにして口を開き、正面に立っている凜に問いかけた。
自分が今ここにいるのは凛に電話で話があると呼びだされたからだ。
ついさっき、昔のことを思い出して胸がざわめき、それを無理矢理に抑えこんだことで、遙の凛に向ける眼差しは本人が望まない鋭いものとなってしまった。
その遙の眼差しを凛はしっかりと受け止める。
ぜんぜん、なってない。
そう凛は思った。
凛が海外留学から帰国して鮫柄学園に編入し、岩鳶高校の二年生となっていた遙と再会したころのことだ。
遙の身体を見て、なってない、と思った。
標準と比べればいい体つきをしているのだろうが、凛の眼から見れば、ぜんぜん、なっていなかった。
遙は本格的な水泳からは離れてしまっていた。
所属していたスイミングクラブは閉鎖され、一歳年下の葉月渚が進学してくるまで岩鳶高校の水泳部は廃部となっていた。
それにしたって、競泳を続けたければ他の場所を探してそこで続けることもできたはずだ。
本人にやる気がなかったのだ。
競泳から離れたのは、状況がそうさせたのではない、遙の意志だ。
どうして。
あんなに泳ぐことが好きだったのに。
いや、競泳から離れていたときも含めて今までずっと好きなはずなのに。
なぜ離れたのか。
もしかして。
考えると、思いあたることがあった。
それは凛に苦い過去を思い出させる。
オリンピック選手を目指して水泳に取り組むためにオーストラリアに留学し、日本に帰省したときに、凛は遙と水泳で勝負した。
勝てる自信があった。
思い出すと、本当に苦くて、胸が締めつけられているように感じる。
勝負した結果、自分は遙に負けた。
強い衝撃を受けた。
だが。
あのとき衝撃を受けたのは自分だけじゃなかったのかも、な。
今でもまだ子供に分類されてしまう年齢だが、あのときは今よりももっと子供だった。
自分がつらくて、まわりのことを見る余裕なんてなかった。
ただ自分だけが傷ついていると思っていた。
相手も傷ついたかもしれないなんて、まるで考えもしなかった。
あのとき、遙も傷ついたのかもしれない。
高い目標を持って海外留学までした相手に自分が勝ったことで、相手を傷つけてしまったことに気づいて、衝撃を受け、そして傷ついたのかもしれない。
だから。
本格的な水泳から離れた。
凛は手のひらを拳にして強く握った。
「俺は」
降りしきる蝉の鳴き声の中、強い口調で凛は話し始めた。
「今でも本気でオリンピック選手を目指している」
大きな木を背景にして向かい合って立つ遙は凛の視線の受け止め、続きをうながすように静かに見返してきた。
「バカだって思うヤツもいるかもしれねぇな。どんなに頑張ったって行き着けないところがある。とほうもない、かなわないかもしれねぇ本当に夢みたいなもんを追いかけて、頑張ってるなんてな」
自分がどこまで行けるかなんて、正直、まったくわからない。
不安になることは、もちろん、ある。
頑張っても頑張ってもムダなだけではないかと思うときもある。
「もっとちゃんと現実見ろよって言われるかもしれねぇな。自分の行ける範囲をちゃんと予想して、身の丈にあった進路を考えろって言われるかもしれねぇな」
目標が高ければ高いほど、手の届く可能性は低くなる。
挫折感を味あわされる可能性が高くなる。
そもそも自分に、ほんの少しでも手の届く可能性が生まれつきあるのだろうか?
「俺は今、高校二年だ。まだ真剣に進路を決めなくてもいいころだ。しかも、夏だ。いろんなところに行ったり、だれかと遊んだり、おもしろおかしく過ごしたっていい」
自分と同じ高校生たちが夏の陽ざしにも負けないぐらい明るく楽しそうにしているのを見かけるときもある。
その横を自分は身体をきたえるためのランニングで通りすぎるのだ。
「別に、俺は本気でそういうのもいいと思ってる」
どんなふうに今という時をすごすのかは人それぞれだ。
大切なものは、人によって違う。
「でも」
凛はふたたび拳を強く握った。
「俺は自分をきたえて、それで、それまで自分の手が届かなかったものをつかめるようになりたい」
厳しい練習を続ける意味はあるのだろうか?
「たとえコンマゼロ一秒でも速く泳げたら嬉しいって思う」
意味を自分に問いかけずにはいられなくて、けれども、その答えを何度かこの手につかんだことがある。
頑張ったことが結果としてあらわれたときの達成感。
思わず声をあげて喜んでしまう。
その瞬間のことが胸にいつもある。
「……だが、おまえは」
真っ直ぐに遙を見て、凛は言う。
作品名:ロマンチストエゴイスト 作家名:hujio