嘆きの色は、赤。
雨が上がった月が辺りを照らす夜、
川のほとりで女の嘆き悲しむ声が聴こえ、
死の近づいた者の衣服を洗っていたならば、
それはひとの死を知らせる悲しい妖精の嘆きである。
もし、彼女の嘆きを止めたければ、
彼女の身を捕まえて離さず懇願するがいい。
「どうか、嘆き悲しみ、泣いてくれるな」
と。
ぽつり。
落ちた雫がプロイセンの鼻を叩き、落ちていく。プロイセンが空を見上げると同時に雫は数を増やして、落ちてくる。プロイセンは傍らで同じように空を見上げていた子どもを濡れぬようにマントの影に隠す。
「あー、降ってきたな」
「すぐに止むだろうか?」
「いや、暫く止みそうにねぇな」
馬を引き、木陰へと入ったプロイセンはそう言い、マントの端から顔を出した子どもはプロイセンを見上げた。
「どうするんだ?」
「…さて、どうしようかね…」
プロイセンは赤い目を細めた。
王に使いを頼まれ、近くだからと子どもを伴い、城を出たのは昼過ぎ。使いも無事に済み、遠乗りへと出たのだが、生憎なことに雨が降り始めた。空は忽ち暗くなり、雨が描く線で今まで見えていた木々さえ見えない。雷鳴が轟き、光るその音に子どもは身を竦め、プロイセンのシャツを掴む。
「…ちょっと走れば、水車小屋があったな。そこまで行こうか」
「…ja」
子どもは小さく返事を返す。プロイセンはマントを取るとそれで子どもの身体を包み、馬に乗せ、跨ると拍車を蹴った。プロイセンに良く懐いた黒馬は雨にも雷にも怯むことなく走り出した。そして、暫くすると雨煙の先、古惚けた水車小屋が見えた。プロイセンは馬を下りると、軋む戸を開き、子どもを馬から下ろし、馬を小屋の中へと入れる。小屋の中は雑然としているが広い。プロイセンはぶるぶると身を震わせ、水滴を払う。馬もそれに倣い胴体を震わせ、雫が飛ぶ。その冷たさにプロイセンと子どもは目を閉じる。馬が申し訳なさそうに小さく鳴いて、プロイセンと子どもは顔を合わせて笑った。
「今日は野宿だな。さて、暖を取れそうなものは?」
プロイセンは部屋の片隅に積まれた薪の束を解き、藁の束を持ってきて、簡易な炉を作る。オレンジ色に点った明かりに子どもはほっとし、プロイセンを見上げた。
「兄さん、濡れてる。寒くはないか?」
「ん。寒い。こっち来いよ」
雨に濡れたコートを脱いで古惚けた椅子の背に掛けたプロイセンが薪を腰掛代わりに座り、子どもを手招く。子どもはプロイセンの広げられた腕の中すっぽりと収まった。
「これなら、寒くないだろ?お前も俺も」
「うん」
オレンジ色の炎に照らされて、プロイセンの赤は夕暮れのような淡い色をしている。子どもは冷えた身体を温めようとプロイセンの背へと腕を回した。
プロイセンがいない間のことを口数少なく普段は無口な子どもは饒舌に喋る。それを相槌を打ちながらプロイセンは聞いてやる。久しぶりに腕に抱く子どもの重みと柔らかく甘い匂いを身体に染み付けように蜂蜜色に融けた金の髪に鼻を埋め、温かな身体に吐息を漏らす。子どもはされるがままにプロイセンの胸に懐いている。それが愛おしくてならない。髪を梳くプロイセンの指に子どもは擽ったそうに目を細め、
「兄さんの話もききたい」
と、言う。せがまれるままに差し障りのない程度に自分が何をしていたのかを話す。プロイセンの声と耳近くで刻まれる穏やかで、もっとも自分に近い鼓動にうつらと子どもの目蓋が落ちる。それを堪えようと何度も瞬きを繰り返す子どもの目蓋にプロイセンは口付けを落とした。
「いい子は寝る時間だぜ。ルートヴィッヒ」
「…でも、」
まだ小さな子どもにとって、プロイセンと一緒に居ることが出来る時間は限られている。まだ、プロイセンの声を聞いていたい。顔を見ていたい。ぐずるように口を開きかけて、すっと唇に当てられた指先に子どもは唇を閉じた。
「悪い子だな。ルートヴィッヒ、眠らない子どものところにはザントマンが来て、目玉を抉り取ってしまうぞ。お前の目はきれいで青くて美味しそうだからな。喜んで持っていくだろうな」
脅すように目を細めたプロイセンに子どもはぎゅうっと目を閉じ、目蓋を手のひらで覆った。
「それは嫌だ!兄さんが見れなくなってしまう…」
なんて、可愛いことを言ってくれるのだろう!…プロイセンの心は甘い柔らかい喜びに満たされていく。プロイセンは愛おしげに見つめ、子どものまろやかな頬を撫でた。
「俺もお前の美しい青が見れなくなるのは、嫌だ。さあ、目を閉じろ。俺はどこにもいったりはしない。お前のそばにいるから」
その声に子どもはぎゅっとプロイセンのシャツを掴む。その手をあやすように叩いて、プロイセンは子守唄代わりに小さな声で聖母に祈る歌を口ずさむ。その愛おしさに満ちた声は子どもを深い眠りへと誘う。やがて、漏れ始めた寝息にプロイセンは目を細め、子どもの額に口付けを落とした。
パチパチ…と、薪が微かに爆ぜる音。雨は止んだのか、雨音は聴こえない。
どこからともなく、バシャバシャと水音が聴こえ、女が啜り泣く声が聴こえる。それに子どもは目蓋を開いた。
瞬き、顔を上げれば眠るプロイセンの顔が近くにある。いつもなら、身じろぎひとつしただけでも、目を覚ます彼が動く気配はない。…疲れているのかと思い、子どもはプロイセンの頬を撫でると耳を澄ました。
誰かが、何かを洗っている。
悲しげに啜り泣く、女の声がする。
気の所為ではない。
誰が泣いていると言うのだろう?
こんな夜更けに。
子どもはそっと、プロイセンの腕から抜け出す。水車小屋の戸を音を立てぬようにそっと開け、外を窺う。雨は上がり、差し込む月明かりに黒い影が見えた。川岸で黒い影が何かを洗っている。その手にしているもの…、
黒と白、宝珠と笏を手にし、王冠を戴いた黒鷲。
子どもはひゅっと喉を鳴らして息を呑む。木々の繁る葉の間から差し込む月明かり、女は真っ赤に汚れた軍旗を洗いながら、泣いている。
(…バンシー、…だ)
読んだ本の中にあった。バンシーは死の近づいたひと衣服を洗うのだと。この妖精は人の死を知らせるのだ。流れるような黒髪、火のように赤い目をして、緑の服の上に灰色のマントを羽織った、焼け爛れた醜い顔をした老婆。本に描かれたそのままの光景が、子どもの青い瞳に映る。
爛れたその頬を涙で濡らし、彼女は真っ赤に汚れた黒鷲を洗っている。
プロイセンの死が近いことを、嘆き悲しんでいる。
子どもは言葉もなくその光景を見つめ、暫し呆然とする。
ああ、なんてことだ。兄さんが死ぬ?…そんなことはあってはならない。
子どもは恐ろしさも忘れ、外へと足を踏み出す。それを咎める様に馬が低く鳴く。それをも構わずに、子どもは外へと走り出し、彼女の身体を抱いた。
「やめてくれ!おれから、兄さんを奪わないでくれ!どうか、お願いだ。その涙を止めてくれ」
見上げた彼女の顔は醜く膿んで爛れ、恐ろしくおぞましい姿をしていた。子どもは彼女のその顔を見つめ、懇願する。彼女の赤く燃える見開かれた瞳からはぽろぽろと真珠のように美しい涙が零れ、子どもの服を濡らす。子どもは必死になってその涙を拭った。