決意は揺れて 5
黄瀬が帰ってくるまであと少し。
数日過ごせるだけの荷物を森山の部屋へと運ばせてもらう。森山はしつこく止めることも受け入れることもせずに、そうしたいならとただ泊まることを認めてくれただけだった。すぐ出て行くからと言う笠松に、何か伊痛げな表情を見せたのは気のせいじゃないと気づいてはいた。それでも、今は自分に都合の悪い話を耳に入れたくはなかった。
「じゃあ、明日から頼むな」
会社から直接森山の家に帰ることになっている。合鍵も預かった。
「わかった。夕飯はどうする? 今から帰っても遅い時間でしょ」
「帰り際にどっかで食べてく。てか、あんまり食欲ないからなんも食わないかも」
「何言ってんのよ、妊婦が。あーもう、作るから食べていきなさい」
身体のことになると、やけに心配してくれる。大事に思われてるんだなと自覚する。
「あんがとな。何か手伝うわ」
この友人への感謝は、言葉でも尽くしきれない。笠松も立ち上がり、夕食の支度を手伝う。
メインメニューである、豚のしょうが焼きを調理し始めたときだった。普段なら、食欲をそそるはずのいい匂いを嗅いだとき、笠松は胃から異物を押し上げてくるような錯覚に襲われる。
「――っ」
気持ち悪い。
咄嗟に口元を押さえて、嘔吐感に堪える。
「ん、どうしたの?」
どんどんと強くなる肉の焼かれる匂いにとうとう耐えられなくなり、森山の言葉を無視して笠松はトイレに駆け込んだ。
昼食以来何も口にしていない笠松の胃の中に何も入っていないはずなのに、胃の中がぐちゃぐちゃとした感覚に襲われて気持ち悪い。空っぽの胃から何かを吐き出そうとして、胃液が逆流してくる。
「ちょっと、大丈夫?」
慌てて追いかけてきた森山が背中をさすってくれる。
「わりぃ……水をもらえるとありがたいんだが」
吐き気を少しでも押し流せたらと、森山に頼む。このときの笠松にずうずうしいなど考えている余裕もなかった。
水を飲んで落ち着いても、ダイニングに戻ると肉のにおいで再び吐き気が呼び起こされるようで、森山が冷蔵庫に片付け終えるまでそれは続いた。
泊まっていけと森山に促されるまま頷くと、悪阻ではないかと森山に言われるまでその可能性を思いつかなかった。悪阻は人によるから、なんて妊婦なのに妊娠経験のない友人に諭されることになる。
そのまま森山の家に泊まらせてもらったけれど、起きた時間が遅かったために結局家に帰れずにそのまま出社することになった。
週末に家を探しながら、日用品を買い足さないとな、と会議の合間にぼんやりと考える。この日は朝から会議、昼からは上司について取引先に向かうと、十五時過ぎに帰社できることになってようやく、自分の作業が出来ると喜んでいたときだった。
会社の受付周りを囲むように、薄い人垣が出来ていた。なんだ、と人垣を避けてその前を通り過ぎようとしたとき、その異様な状況に気づく。
長身で金髪の男が、なにやら必死に受付の人に交渉している。受付に座っている女性はやや困惑しながらも応対しており、それを見に来た野次馬たちは普段見慣れない芸能人の姿にざわついていた。
黄瀬!?
笠松にとって高校時代の後輩で、ついこの間別れを切り出したばかりのk恋人がそこにいた。目立つことを自覚していないのか、変装もせずに普段の格好そのままでそこに立っている。
予想外の出来事に、笠松は思わず足を止めてしまった。そして、そのタイミングがまずかった。金髪で長身の男がふと振り返り、人の群れに目をやった。その瞬間、目を見開いて笠松をじっと見てきたのだ。
「センパイ……」
不意に泣きそうな表情を滲ませ、消え入りそうな声を発した黄瀬から笠松は視線をそらす。先を歩く上司を追いかけないと。踏み出した足は、左腕を引っ張られて引き止められた。
ぐっと握られた腕は、痛みを感じる。
「幸緒さん、昨日はどこに泊まってたんですか」
「黄瀬、離せ」
「……ずっと、待ってたんです」
「私は仕事だ」
逃げなきゃ。周りのざわつきも、黄瀬の言っている言葉も笠松には届かない。早くここから立ち去らないといけないと、自分に言い聞かせる。
「だから、離せ」
黄瀬の表情が歪む。そんな顔を見たかったわけじゃないのにな。心の中で呟いても、届くわけがない。
「……わかりました」
抜け落ちるように、腕が離される。
「お仕事が終わるの、六時でしたよね。いつもの喫茶店で待ってます。そこで、話しましょう」
「私から話すことなんて……」
「ずっと、幸緒さんが来るまで待ってますから」
泣きそうな表情に無理矢理笑顔を貼り付けた黄瀬は、お邪魔しましたと一礼してビルを出て行った。本当に、あの表情は昔と変わらなくて、つい伸ばしそうになった手をぐっと握り締めた。
幸いというべきか、ロビーでのやり取りを尋ねてくる人はほとんどいなかった。二人の緊迫した様子に誰も触れられないのか、業務に必要な最低限の会話しかしなかった。親しい同僚がさっきのことだけど、と問いかけてきたときに、「高校時代の後輩なんだ」と曖昧に笑って返せばそれ以上追及されることはなかった。
終業後、雑務を済ませてから会社を出た。その足取りは重く、普段よりも移動がゆっくりだったという自覚はあった。
デートでよく利用したそのカフェは外装と内装ともに大正時代を思わせるレトロなデザインをしており、古めかしいためか客層も若い人よりも年配の方が多く、騒がれることなく落ち着けるからと黄瀬が好んでいた。笠松も、一緒に通うようになり、その店の珈琲の味を覚えてしまった。
会社を出てから三十分以上経っており、さすがに引き伸ばしすぎたかとため息とともにドアを開く。カラン、というドアベルの音が鳴り薄暗い店内に足を踏み入れる。
よってくる店員さんに連れがいることを伝え、奥へと進む。ステンドグラスの窓の傍の壁際にいる金髪を見つけて、その正面に座った。
「待たせたな」
「いえ、昨日に比べれば」
ほんの少し、悲しそうな表情をしながら言う黄瀬に疑問を浮かべながらも店員に飲み物だけ注文し、息を吐く。
「珍しいですね、センパイがオレンジジュースなんか頼むの」
さっきは『幸緒さん』だったのに、今は『センパイ』に戻っている。いったい、その違いはどこにあるのか。そもそも、外で名前を呼ばれることなんて初めてだったな、なんてぼんやりと思い返す。
「外歩いてると暑くなったから、冷たいものが欲しかっただけだ」
カフェインを控えてる、なんて言えない。森山が常識という限り、黄瀬だって妊婦がカフェインが良くないことを知っている可能性がある。
「それより、なんで昨日は家にいなかったこと知ってるんだ? さっきも、昨日に比べれば、って言ってたよな」
少なくとも、黄瀬が帰ってくると言っていたのは今日の夕方で、昼間に会社にいることすら驚いたというのに。
笠松は自分の席に戻ってから、ロビーではきちんと受け止められなかった黄瀬の言葉を反芻していた。ずっと待っていたというが、どこで待っていたというのか。嫌な予感だけ、胸につっかかっていた。
オレンジジュースが届く。コースターの上に乗せられたグラスは、結露していて触れば濡れてしまいそうだった。