決意は揺れて 6
黒子との電話を終えて、笠松はため息を吐いた。
「何が起こったの?」
「黄瀬と会うことになった」
森山に何が起こったのかを問われれば、診察のときに黒子と出会ったことを話した。すると、年下に振り回されて大変ね、とだけ言われる。
笠松がどうしようかと唸る。ここまでくれば話すしかないが、話してからどう逃げるべきか。考えるにしても、日がない。今週末に設定したのも、笠松がさっさと逃げてしまわないようにだろう。なかなか、黒子も用意周到で恐ろしい。
ぼやくようにどうしたら良いのかと口にしていた。すると、森山は盛大なため息を吐いた。
「もう何だって良いから早く解決しちゃいなさい」
「何だってって……ひどい言い草だな」
友人に投げかけるセリフにしては、あっさりとしすぎていてひどいものだ。笠松はスマートフォンを見つめて、最近の着信履歴を眺めていた。あまり電話の掛かってくることの少ないため、最近はほとんどが涼太で埋まっている。
「私はね、あんたが羨ましいのよ」
小さく言う森山に笠松は顔を上げる。目の前にいる親友は、今にも泣き出してしまうんじゃないかと錯覚するくらい痛切な表情をしていた。
「いくら相手は黄瀬だっていっても、好きな人に愛されてて、その人との子供が出来たんでしょう。女の幸せの一つだって、自覚ある?」
「それ、は……」
考えてみたこともなかった。黄瀬の負担にならないか、邪魔にならないか、それだけしか頭になくて。邪魔になるなら消えようと思ったのに、黄瀬とのつながりを手放したくなくて。子供が出来たことそのものについて考えたことなどなかった。
「っ、森山――」
「私だって、恋人といちゃいちゃしたいわよ!」
「………………は?」
ドン、と勢いよくテーブルを叩いて言い放った友人に、笠松は眉間に皺を寄せた。
「恋人と甘々えっちとか羨ましすぎるわ! 私だって相手の転勤さえなかったら今頃あんんたにかまってる暇もないくらいにいちゃいちゃしてるしえっちしてるとこだわ!」
拳を振り上げて語る友人に、呆気に取られるしかなかった。額も平らになるくらいに。
いつの間にか愚痴が始まり、笠松は大人しく話を聞くという構図が出来上がっていた。森山の口から発される話があまりにも突拍子もないものも含まれ、笠松の思考は現実逃避を始める。大した欲求があったわけではないのに、おなかすいたな、と思うくらいに。
「とにかく、あんたは今、恵まれてんの! 一ヶ月会えないくらいでゴチャゴチャ言わないで、さっさと会ってくる! ちょっとでもあの駄犬が変なこと言いやがったらあたしが締めてあげるから」
思う存分、話して来い。
むちゃくちゃな理屈だけれども、力強く背中を押してくれる友人に笠松は心の中で感謝をする。ほんの少しだけ口元を緩めて笑う。
「とりあえず、お前はめちゃくちゃな言い分でドン引かれないようにしろよ」
「うるさい、余計なお世話よ!」
黄瀬のマンションを訪れるのは三ヶ月ぶりで、今日する予定の話の内容と相俟って、いつにない緊張感がある。
十時よりも少し前、オートロックのインターホンから黄瀬の部屋番号を入力する。機械音がした後、ノイズの乗った声が聞こえてくる。
『はい』
「笠松だ」
『……どうぞ』
ジー、と鍵が回される音がして解錠された。その厳重なドアをくぐって中へと入る。
黄瀬が大学生の頃から使っているマンションはリビングとダイニングキッチンがつており、笠松の部屋よりも広い。しかし、黄瀬はセンパイの匂いがするのが好きだとか、狭いほうが落ち着くと言って笠松の部屋に来たがっていた。豪華なマンションに足を踏み入れるのも気が引けていたので、笠松にとってはちょうど良かったが。
部屋の前でチャイムを鳴らすと、黄瀬はそのままドアを開けて出てきた。黄瀬の表情が気になるより先に、インターホン越しに相手を確認しないことに怒鳴ってしまった。
センパイらしいですね、なんて苦笑いをされながら中へ通されると、急に恥ずかしくなる。笑い合いに来たわけではないはずなのに。
通されたリビングはいつも通り整頓されていた。しかし、部屋の隅には大きなキャスターつきの旅行かばんが放置されたままだった。部屋がきれいじゃないと落ち着かないという黄瀬にしては珍しかった。
「今、コーヒー淹れますね。ホットでもいいっスか。アイスのほうが……」
「いや、いい。……いらない」
せっかくなんですからと笠松の言葉を無視する黄瀬。きっと、笠松が気に入っている豆でも用意していたのだろう、二人分入れられるドリッパーがキッチンに出ていた。
「長居するつもりはない。座れ」
「あ、お土産も貰ったので良かったら持って帰ってください。レンコンチップスで、食べてみたんスけど結構いけましたよ」
こうやって、笠松の言葉を受け入れない時はたまにあった。自分の要望が通らないときや、笠松と離れたくなくて帰らせないようにしたり、無理矢理部屋に居続けたりするときによくしていた。ここ最近、黄瀬が忙しすぎてか駄々を捏ねる時間もなく大人しくしていたため、忘れていた。
最後の話を、終わらせたくないと思ってくれているのかもしれない。
私だって、離れたくない。だけど、ここで別れておかないと黄瀬に迷惑が掛かる。黄瀬の立場を悪くすることだけは、したくなかった。
ほんの少し前の、黄瀬が言い出すまでずっと待つと決めていた覚悟なんてすり替わり、黄瀬から逃げることしか考えていなかった。
しばらく無言で待っていると、マグカップが目の前に差し出される。黄瀬がどこかで見つけてきた、ペアになっているカップだった。なみなみと注がれたコーヒーは、いつも黄瀬が出してくれるものと変わらず、久しぶりのその匂いにどこか懐かしさを感じてしまった。
こちらをそっと窺い見る黄瀬をみてため息を吐く。
「黄瀬、私は話をしに来ただけで、別れる意思は変わらない」
いいな、と念を押すと、黄瀬の表情が歪む。
だから、そんな顔をさせたいわけじゃなかったんだ。
「あのな――」
「センパイ、俺、考えてたんです。どうやったらセンパイと居られるのかなって」
「……黄瀬?」
正面に座る後輩は、強く拳を握っていた。わずかに肩が震えていて、何かを堪えているのかと思う。
「センパイは、俺が芸能人として活躍してるから不安になるんですよね。だったら、モデルをやめてしまえばセンパイは別れるのを考え直してくれますか?」
「なっ!?」
「確かにお給料は下がると思うんですけど、ショップ店員でもコンビニバイトでもします。外に出るのが嫌っていうなら、家でできる仕事探します。だから――」
「やめろ!」
ダンッ。反射的にテーブルを叩いてしまった。驚く黄瀬を真っ直ぐに見つめた。
「そうやって、お前が私に振り回されているのが嫌なんだ。モデル続けて世界のショーに出たいって言ったよな、その夢はどうするんだ。私は、それを叶えて欲しいって、ちゃんと実力で掴んできて欲しいと思ってるんだ」
「嘘つき」
「本当だ」
ポタ、ポタ、と涙が零れた。黄瀬が、自身の手の甲を濡らす。
「じゃあ、傍にいて見ててくださいよ。センパイが居てくれたら、俺、頑張れるんです。だからっ」