決意は揺れて 6
黄瀬が自分を求めていてくれることに嬉しさがこみ上げる。けれど、それを振り切らなければならないことに、胸が締め付けられる。
言い訳の言葉が口から出せなくて、首を横に振る。これ以上、上手い嘘をつける自信がなくなってきたのだ。
「……もう、俺を嫌いになったってことスか」
「そんなことない。好きだよ、涼太」
「じゃあ、俺はどうしたら良いんですか!」
仕事やめて傍にいるのはダメで、好きなのに一緒に居られないと言われて、何をすれば笠松と一緒に居られるのかと問いかける黄瀬。泣き虫なのは、昔と変わらない。これで俳優なんてやってけるんだろうかと笠松は心配になる。
今、手を伸ばせばこの目の前の男を手放さなくて済むのに、自分はそれを許されと手を伸ばさないように手に力をこめる。
「私を、諦めてくれ」
「…………何で、センパイが泣きそうなんですか」
ひっく、ひっく、と肩を揺らして涙を抑えながら鼻をすする黄瀬。
自分でも気づいていなかったことを指摘され、笠松は思わず眉間に皺を寄せた。
「そんなことねぇよ。とにかく、お前とは一緒に居られない」
じっと見つめると、黄瀬が唇を強く引き結んだ。
「いいな」
「……それで、センパイが幸せになれるなら」
背筋を真っ直ぐと伸ばして、涙が落ちるのを堪える黄瀬を前にして、嘘だよ、と言えればどれほど良いか。ようやく納得してくれたと、笠松も安堵の息を吐いた。
「じゃあ、本題な」
一口もつけていないコーヒーは、もう火傷しようのない温度にまで下がっているだろう。せめて最後に、一口でも飲めたらよかったのに、とおなかをさする。
「黒子から何か話があると聞いてるかもしれないけど、お前に電話で話そうとしてたことだ」
黄瀬は大人しく頷く。
言い出したくないけれど、黒子の口から伝わるよりは自分の口から伝えたかった。
「妊娠した。」
「はっ!?」
「相手はお前だけど、認知してくれとは言わない」
「ちょっと待ってセンパイ」
「慰謝料とか養育費とかもいらない」
「その前にですね」
「お前の前に現れないようにもする」
「だから何言ってんの!?」
「生んで育てることだけは見逃してくれ」
「見逃すとかそういう問題じゃないでしょ!!」
バンっ、とテーブルを叩き、前のめりに黄瀬が詰めてきた。勢いが強すぎたおかげで、マグカップの中のコーヒーが揺れて、わずかにこぼれる。
「なんで子供が出来て別れるって発想になるんすか!?」
「え、なんでって……」
「迷惑とかそういう話は良いですから。ってか、フツー責任とって結婚しろとか言うでしょ!」
「森山みたいなこと言うなよ」
「って、森山センパイも知ってんすか!?」
ぎゃーすか騒ぐ黄瀬の言葉はとどまることを知らず、何ですぐに言わなかったのかとか、どうして他の人が知っているのかとか、どんどんと面倒くさくなってきた。
「じゃ、話したから帰るわ」
傍にあったカバンを手繰り寄せて立ち上がろうとすると、黄瀬に腕を掴まれる。
「話、終わってないっス!」
「私はもう話すことはない。お前とは別れる、私は妊娠してる。以上」
「終わらせないで!」
ずっと腕をつかまれ、諦める様子もない黄瀬にため息を漏らす。
「お前だって、別れるって納得したんだ。男に二言はないだろ」
「妊娠してるなんて、前提条件が違いますって!」
黄瀬曰く、一人で子供を育てるのはすごく大変、俺も一緒に子供育てたい、そもそも私と別れるのが嫌だということが一切伝わっていない、と。
「別れる、っていうのも子供が出来たからなんでしょ? 俺に迷惑掛けるとか、人気が下がるとか、そんなことを考えて言ったんだよね」
見上げてくる黄瀬に何も答えられなかった。黄瀬は真っ赤にした目で優しく微笑むと、笠松に座るように促して寝室へと入っていった。
今、帰ってしまえば良いのかもしれない。だけど、久しぶりに見た黄瀬の笑みが頭から離れなくて、その場を去ることは出来なかった。少し大人びた優しい笑顔はここ二年くらいで見られるようになった表情で、いつも見惚れそうになる。
寝室から出てきた黄瀬が何かを持っている様子はなく、ほんの少し上機嫌さが窺えた。
笠松の真隣、距離は十センチもないところに正座する。
「失礼します」
両手で笠松の左手を取ったと思うと、右手でポケットをまさぐり始める。笠松は思わず眉をひそめる。
右ポケットから取り出されたのは銀色の輪。キラキラと輝く透明な石とその横に小さなピンク色の石がついている。その輪を、左手の薬指にはめられた。
「これ……」
「幸緒さん、俺と結婚してください」
エンゲージリングというものだろう。まさか、自分が貰えると思わず、笠松は呆然としていた。
「実は映画で主演をさせてもらえることになって、長期の撮影もそれだったんです。モデル中心で仕事していくつもりなんですけど、一区切りと言うか、一人前になれたかと思って、映画の情報が公開されたらプロポーズしようって前から思ってたんです」
順番、変になっちゃったんスけど。
笠松の様子を窺いながら話す黄瀬の言葉をうまく飲み込めず、笠松は指輪から目を離せずに呆然としていた。
「不安にさせたこといっぱいあって、これからも不安にさせてしまうかもしれないんですけど、幸緒さんを好きな気持ちは変わらないので、俺とずっと一緒に居てくれませんか」
まだ黄瀬は成長途中で、仕事に打ち込まなければならない時期で、恋人よりも付き合いが大切なはずじゃなかったのか。
どうして良いのかわからず戸惑っていると、何か暖かいものが頬を伝った。それが、服の上に落ちて、ようやく涙だと気づく。
これは、夢だろうか。
「だって、お前、仕事とか……」
「仕事は仕事。プライベートはプライベート。結婚したくらいで評価が下がるなんて実力がないってことです。その程度で評価が落ちるとは思ってないですし、落ちたらもっと頑張るだけです」
黄瀬が笠松の左手を握って、親指で宝石を撫でる。
「本当に、幸緒さんが嫌なら別れます。でも、子供は俺にとっても子供なんで、認知させてください。養育費も出させてください。あと――」
「黄瀬」
言い募る黄瀬を制止して、笠松は黄瀬の手を握り返した。
「私は、大雑把だし、女性モデルのようにきれいでもスタイルも良くない。大人しく家で家事をするのも性に合わない。それでも良いのか?」
勇気を振り絞って黄瀬を見上げると、ほんの少し頬を紅潮させ、満面の笑みを浮かべていた。そして、飛びつくように笠松に抱きついてきた。
「幸緒さんだから良いんです!」
もう絶対離しませんから。
ぎゅ、と強く抱きしめられた久しぶりの黄瀬のぬくもりはいつもよりもずっと心地が良いものに感じられた。