水泳バカップル
凛遙的日常
「メッセージのある方はピーっという発信音のあとに」
凛は耳のほうにやっていた携帯電話を胸の近くまでおろし、不機嫌そのものの表情で通話を切った。
通話といっても相手は留守番電話サービスだ。
放課後に鮫柄学園のプールでひと泳ぎし、今日は早々にきりあげて、寮にもどる途中である。
夏だから日が暮れるのは遅い。
夜に近い時刻だが、外はまだ明るい。
どうするか。
むうっとした顔のまま凛は考えた。
そして、寮のほうへ進んでいた身体の向きを変えた。
凛の目のまえには和風の一軒家がある。
引き戸の横の呼び鈴を押してしばらくすると、玄関の戸が開けられた。
「なんだ、おまえか」
あらわれたのは遙である。いつものように、なにを考えているのかわからない無表情だ。
凛は遙の顔を眺めつつ、肩を上下させ、口から息を吐いた。
その凛の様子を見て、遙は問いかける。
「走ってきたのか?」
「ああ、いい運動になったぜ。特に最後の階段駆けあがりが、な」
遙の家は神社へと続く石段を半分ほど登り、鳥居を左に折れた先にある。
「おまえは本当に陸上トレーニングが好きだな」
「……陸トレじゃねぇよ」
ボソッと凛はぶっきらぼうに言った。
遙は首をかしげている。
陸上トレーニングではなくて、なぜ凛が走ってきたのか、わからないのだろう。
凛はムスッとした表情で一歩足を踏みだした。
自分のほうに進んでこられて遙は進路を譲るように身体を移動させた。
凛は敷居を越え、家の中に入る。
遠慮無くどんどん進んでいく。
ここは遙がひとりで暮らしている家だ。海外赴任中の遙の両親と顔を合わせることもない。
居間に入った。
凛は居間を見渡し、それを見つけた。
テレビ台の上に無造作に置かれている携帯電話。
凛は眉根を寄せた。
そして、その切れ長の眼を近くにいる遙に向ける。
「おまえ、また携帯電話を置きっぱなしにして行動してただろう」
「ああ、そういえば」
遙は凛の責めるような口調にも無表情を崩すことはなくスタスタと居間の畳を歩いてテレビ台のまえまで行き、携帯電話を手に取り画面を見ながら操作し始めた。
少しして、遙が携帯電話を持ったまま凛のほうを見た。
「おまえから電話があったようだな」
「やっと着信履歴を確認したのかよ」
どのぐらいのあいだ遙の携帯電話は持ち主から存在を忘れ去られていたのだろうか。
凛は遙を軽くにらむ。
「ぜんぜん携帯されてねぇんなら、携帯電話の意味がねーだろーが」
「おまえに言われたくない」
「ああ?」
「メールを送ってもぜんぜん返信が来ないって、おまえの妹が悲しそうにしていたぞ」
「うっ……」
妹の江は兄である凛を慕っていて、いろいろと気遣ってくれ、たびたびメールを送ってくるが、その江のメールに対して凛はほとんど返信していない。
凛も江のことが嫌いなわけではなく、むしろ妹として大切に思っている。
素っ気ない態度を取るのは気恥ずかしいからだ。
素直になれないお年頃なのである。
凛にしても江のメールにほとんど返信しないのが良いことだとは思っていない。
だから、そのことについて突かれると痛い。
反論できない。
遙は無表情のまま追い打ちをかけてくる。
「だが、返信しないが、内容はちゃんと読んでいるみたいだがな?」
「……」
江からのメールを読んだからこそ凛がした行動のいくつかを遙は知っている。
遙は無口なほうだが、うっかりすると足元をすくわれる。
的確に逆襲されてしまった。
遙が携帯電話をテレビ台の上に置いた。
もう関心をすっかり失った様子だ。おそらく、また、かなりのあいだ、あの携帯電話はその存在を忘れられるのだろう……。
「それで」
遙が凛を見て、言う。
「なんの用だ?」
そう問いかけられて、凛は一瞬眼を見張り、そして、ふたたび、ムスッとした表情になる。
なんの用だと?
イラッときた。
凛は口を開く。
「なんで、おまえに電話すんのに用が必要なんだ。おまえの家に来んのになんで用が必要なんだ。用がなきゃ、オレはおまえに電話しちゃいけねーし、おまえの家に来ちゃいけねーのかよ」
感情が高ぶっていて、その勢いのまま言葉が口から飛び出していく。
「用なんかねぇよ。ただ声を聞きたくなって電話した。会いたくなったから、ここに来た。走ってきたのは陸トレじゃねぇよ、悪いか!?」
「……悪くない」
少し間があってから遙が言う。
「だが、言い終わってすぐに横を向いてしまうのが、おまえの残念なところだ」
「……」
言った直後に自分の台詞の内容を頭が理解して、つい遙から眼をそらして横を向いてしまった。
正直、横顔すら見られたくない。
自分の顔が赤くなっている気がする。
クソ恥ずかしくてしょうがない。
「凛」
遙が話しかけてくる。
「汗をかいているようだが、風呂に入るか?」
「……入る」
そう返事したあと凛は踵を返した。
風呂場のほうに向かおうとした。
その凛の背中に遙が声をかけてくる。
「夕飯も食べるか?」
凛は足を止めたものの遙のほうを振り返らないまま返事する。
「オレは肉が食いてぇ」
「だが、サバだ」
反論の余地は一切ない様子で遙がきっぱりと言った。
「……わかった」
凛は了解を伝えると、また歩きだした。
はー、肉が食いてぇ。
そう思いながら、凛は風呂場へと続く廊下を歩く。
しかし、どうやら自分はこの先ずっとサバをたびたび食べることになるだろう。
まあ、そんな日常も悪くないだろう。