君といるということ
なぜ、考えてもみなかったんだろう。
海が恐いのは自分だけだと思っていて、遙を心の支えとしてきた。
近くにいたのに、江が心に深い傷を負っている可能性を考えてみることをしなかった。
真琴は拳を強く握った。
自分の幼さに気づいた。
恥ずかしかった。
悔しかった。
真琴はその拳を襟元のほうにやった。
ネクタイを取り、土手へと投げ捨てる。
制服を脱ぎ捨てていく。
服は泳ぐのに邪魔になるのだ。
とはいえ、江が見ているので、下まで脱ぐわけにはいかない。
雨に打たれつつ、真琴は上半身裸になって川岸まで降りた。
川を見る。
水の中にはなにかがひそんでいて、ひとを連れていこうとする。幼いころに感じた恐れが胸によみがえった。
一瞬ひるんだ。
だが、それを振りきる。
真琴は川へと飛びこんだ。
水かさを増して勢いよく流れる川を泳ぐのは難しい。
水泳部部長の真琴であっても、おぼれてしまいそうになる。
それでも必死になって泳ぎ、流されてきた少年をどうにか捕らえ、少年を沈めないよう気をつけながらという難しい状態で、真琴は川岸までもどった。
少年を抱えながら、川岸へとあがる。
母親らしき女性が駆けつけてきた。
「あっ、あっ、あのっ……!」
女性は真琴のほうを見て、なにか言おうとしているが、気が動転しているせいか、うまく言葉にならないらしい。
真琴は女性に微笑んで見せる。
「いいですから」
やわらかい声で言うと、女性に少年を差しだした。
女性は少年のほうに手を伸ばす。
そのとき、少年が閉じていた眼を開け、女性のほうを見た。
「お、かー…さん」
ようやくつむぎだしたような、かすれた声だった。
女性は大きく眼を開いた。
少年の身体をつかむ。
そして、少年を抱きしめ、泣き崩れた。
ふたりの様子を見て、真琴は微笑んだ。
それから、川岸に腰をおろした。
さすがに疲れてしまった。
そんな真琴の近くに、だれかがやってきた。
真琴は川岸に座ったまま見あげる。
江、だ。
この雨の中ずっと傘をささずにいたから、びしょ濡れだ。
顔が強張っている。
いつもとはすっかり違う様子で、じっと真琴を見ている。
その口が開かれる。
「ありがとうございました……!」
そう言いながら、江は真琴に向かって頭を深く下げた。
真琴は少しのあいだ無言で、頭を下げたままの江を眺めていた。
江は自分が少年を助けに行けなかったことを申し訳なく思っているのかもしれない。泳げない自分を情けなく感じているのかもしれない。
そういう子だ、江は。
「江ちゃん」
真琴は声をかける。
「頼ってくれていいんだよ」
腕をあげ、手を伸ばす。
頭を下げている江の顔が近くにある。
真琴の手が近づいてきたからか、江は真琴を見た。
雨に濡れた強張った頬。
真琴はさらに言う。
「無理に頑張らないで」
頬に、触れる。
「つらかったら、泣いていいんだよ」
江が大きな眼をいっそう大きく開いた。
そして。
瞳が揺れた。
強張っていた表情がぐしゃっと崩れた。
閉じられた唇が震える。
その顔を隠すように、江はうつむいた。
江の膝が折れた。その膝が川岸についた。
崩れ落ちる。
そんな江を、真琴は受け止める。
江の背中のほうに手をやる。
背中を抱くようにして、ふわりと優しく告げる。
「恐かったね」
さっき少年が川に流されていたいたことだけではない。
江の父親が乗っていた船が沈んで命を失ったことも思って言った。
すると。
背中に江の手がまわされたのを感じた。
「……っ……!」
嗚咽をこらえているような短い声。
江が顔を見せないようにして、泣いている。
真琴はその江の背中をなでながら、自分の胸に温かな想いが生まれているのを感じた。
強くなりたい。
そう思った。
君を守れるぐらい強くなりたい。
君のそばにいて、君を守り続けられるぐらい、強くなりたい。
いつか、君にそう伝えられたらいい。