繋いだ手、握りかえす手
茜色に染まる空を映したかの様なプールの水面は、太陽の光に照らされてきらきらと輝いていた。まるで空を映す鏡のようだったが、近づけばそこには透明な水があるだけで、光の加減で覗き込む平古場の顔を映しては消えてを繰り返していた。
風で小さく揺らめく水面に手を伸ばせば、手をつけた場所から波紋が放射線状に広がっていく。その様子を静かに見つめた。冷たくもない水を掬い上げて、隣に屈み込んで掃除道具を片付けている木手を盗み見る。にやりと笑った平古場は、掬った水を思い切り木手へとかけた。
驚いた様子でこちらを振り向いた顔へ向い、のん気に笑っていると、木手は次第に眉間に皺を寄せ始めた。そして、目が据わってきたあたりから、平古場はその威圧感に数歩後さずる羽目になった。
伸びてきた手をかわすけれど、逃げ切れずはずなどなく、あっさりと捕まった平古場は、容赦なく顔面をプールの水へと押し込まれる。頭を抑えられている上に体勢も不安定で、木手を振りほどくことが出来ず、溺れそうになる一歩手前まで、水に顔を押し込まれてしまった。
もがく様に暴れて、やっと頭にかかる重みが消えたと思ったら、今度は後ろへと思い切り引っ張られた。水面から顔が出ると、平古場は急いで口を開け、あえぐ様にして息を体へと取り込む。大きくむせ返り、床に這いつくばった状態で、見上げた先の涼しげな顔を睨みつけた。
「ここまで、しなくても、いい、だろ……」
息が整わなくて、途切れ途切れの声しか出てこない。何とか口にした言葉も力ないもので、相手への非難というよりも、情けない醜態を余計にさらしている様な有様だった。睨んだ先にある木手の顔の方が迷惑そうで、何でこんな目に合わなければならないのかと、先ほど平古場が行った行為を棚に上げて心の中で詰った。
「何を言ってるんですか。先に手を出してきたのは君でしょう」
「そりゃそうだけど、何も此処まで……」
心の中を読んだかの様な木手の科白に、後ろめたい気持ちを抱えながらも反論する。けれど、木手からの殺されるのではないかと、錯覚してしまいそうなほどの鋭い睨みの所為で、最後まで言葉を続けることは叶わなかった。
「俺の髪型が崩れるでしょう。それより、他に言うことがあるはずですが?」
「すみませんでした……」
最後の一言で、完全に木手には勝てないと思った平古場は、体を完全に床へと伏せた。頭の上から「よろしい」とお許しの言葉を頂いて、大きくため息をついて脱力する。ちょっとした悪戯だったはずが、こんなことになるとはまったく思っても見なかったと、後悔しても後の祭りだった。
「いつまで寝ているつもりですか、さっさと起きなさい」
「あーー……」
返事なのかどうか良く分からない言葉を返して、のろのろと起き上がる平古場に、木手は眉間に皺を寄せながらも黙って見つめていた。
どうしてこうも自分本位で、身勝手で、利己的で、一匹狼を気取っているくせに甘えたがり屋で、木手の手間ばかりかけさせるのか。
本当にどこまで面倒くさい男なのかと、頭が痛くなるようだった。甲斐とは違い、行動パターンを把握していても、予測通りに行かないことが多い。
小賢しいのに憎めない。
束縛られることが嫌いな上に、他人に興味がない。それなのに木手のことはよく見ている。
自由奔放で、木手の言う事など微塵も聞く気がないのは明らかだった。そんなことは、誰に聞かなくても明白な事実で、木手がそんな平古場に付き合う必要などない。だから、好き勝手にすればいいと、何度も見放そうとするけれど、目を離すことができなかった。
今も、そうだ。ダラダラと起き上がる平古場を置いて、さっさと帰ればいいのにそれが出来ない。
目が離せない。
傍から離れることが出来ない。
この感情の意味を自覚したのは、それほど昔ではない。自覚したからと言ってどうする事も出来ない。お互い男同士で、例えこの感情を伝えたとしても無意味だ。
だいたい、平古場には彼女がいるはずだ。長い期間付き合っている人がいる訳ではなさそうだが、途絶えることなく新しい彼女を作っている。告白した所で気持ち悪がられて終わりだ。
それならば、胸に秘めたままでいればいい。そう木手は自分自身の中で結論づけていた。
苛立つ感情を持て余して、木手は乱暴に掃除道具を片付ける。怒っている雰囲気が伝わったのか、その後は平古場も大人しく掃除道具を木手と一緒に片付け始めた。
もともとこの掃除は、平古場が教師に罰として言いつけられたものだった。その時、傍にいた木手までとばっちりを食らったことを思い出して、怒りが何倍にも膨れ上がった。素直に従った自分自身が馬鹿らしくなる。けれど、平古場との二人きりという珍しい時間に、後ろ髪を引かれて今ここにいることを思いだす。無意識に溜め息が零れた。
その溜め息を隣で聞いていた平古場が、不意に覗き込むように木手の視界に入り込んできた。
「どうした?」
「……さっさと終わらせて帰りたいだけですよ」
苛立ちも顕に答えると、平古場は苦笑いを浮かべて顔の前で両手を合わせた。
「あー……、わっさん。でも、わんはえーしろーと一緒で嬉しいけど」
「…………男二人でプールにいて、嬉しいも何もないでしょう」
「そりゃーそうだな」
軽い笑いと共に木手の言葉に同意する。平古場が嬉しいと言った言葉の意味を、深読みしそうになるけれど、たぶん言葉通りの意味しかない。それ以上のことなんて在るはずが無い、期待するなと、心に言い聞かせる。
木手はまた溜め息が零れそうになったが、寸での所で飲み込んだ。
「無駄口を叩いてる暇があるなら、手を動かしなさい」
そう言って睨みつけると、平古場は肩をすくめておどけるような仕草をした後、倉庫へと道具を運びこんだ。
全ての片付けが終わって、平古場は飛び込み台に座りこんでいた。踝まで足を水につけて、ぼんやりと夕日を眺めている。掃除の最終チェックは、木手に任せておけば大丈夫だろうと、一足先に片づけを勝手に終えて、のんびりと夕暮れ時の風を堪能する。
パシャリ、と足を水にくぐらせる音が耳に心地よくて、何度も足を動かして水音を響かせる。水音を聞けば、暑さが少し和らぐような気がした。そんな風に平古場が遊んでいる場所へと、木手がゆっくりと近づいてきた。
平古場は、仰向いて「おつかれ」といつもの陽気な笑顔で言えば、木手はまた溜め息をついて「真面目にやりなさいよ」と疲れた声を出した。
珍しいとまでは言わないが、覇気の無い木手を不思議に思って見つめていると、眉間に皺を寄せた顔で睨まれた。短気なことは知っているし、自分の思い通りにならなければすぐに脅すのも日常茶飯事だけれど、どこか覇気のない様子はやはり心配になる。
木手の掌へと手を伸ばして握りこみ、そっと平古場の隣へと近づくように軽く引っ張れば、渋々といったような態度で歩みを寄せて来た。身長差で見上げる形になったが、平古場は特に気にすることはなく、ただじっと木手の瞳を覗きこむ。
作品名:繋いだ手、握りかえす手 作家名:s.h