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孤白とゆうたろう0~一夜ばかし~

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秋。落葉の千秋楽は通り過ぎ、寒さで縮み上がった木枝に辛うじてしがみついている枯葉も、紅々とした色素も水気も失くした落ち葉も、もの寂しさを気化させてそこいらの空気に満たしている。森は眠りに落ち、生命は身を隠す。そんな季節に渇葉を踏み、他の何よりも悲しさを湛えた白い影が頭を垂れて歩いていた。

 私は、狐である。
 名前は、昔かつてはあったが今はその意味を成さない。呼ぶものがなければ名など狐には無用の長物なのだ。狐に個性も没個性もありはしない。狐は狐でしかない、狐というのはそういうものだ。私も狐である限りそうなのだろう。
 私は白い狐だ。生まれつき白銀の美しい毛並というわけではなく、狐にしては長く生き過ぎた私の年老いた毛皮から色素が脱落した、ただそれだけのことだ。
 がさり、と私の歩む音が静閑な深山に木霊する。すっかりと秋も暮れ、墓場のように静まってしまったものだ。暫く前までは蟋蟀どもが喚き散らしていたのだが、彼らはどこへ行ったのだろうか。
 嗚呼、狐にとっても厳しい季節がやってくる。だが私にはもはや関係などないだろう。
 私が潜むこの山は住処を失い、彷徨い老いた私が辿り着いた最期の場所。独りで消え逝く私にはお誂え向きの、死に場所。
 幸運にも近隣の村の人間は滅多なことでは山に近づきはしない。ある場合を除いて、は。
 すると、そんな“例外”がこの山を訪れた。
 こんな時に山を訪ねるとしたら、腹を空かせて自棄になった猟師か……間引かれた人の子か。
 その答えが後者だということは容易に理解できた。娘だ。その上びっこを引いている。ははあ、成程、人間というのは実に酷なことをする。
 人の間には“子取り狐”という言い伝えがあるという。人を化かす狐が人の子を浚って食う、というものらしい。無論、賢い狐は態々危険を冒して人間の子を襲うよりも、野鼠や野兎を追ったほうが安全だということを知っている。これは、子を間引く親の罪悪感が生んだ寓話だ。私の目前を這う娘もそんな“子取り狐”の哀れな被害者だというわけだ。
 哀れな娘は歩く気力も体力も尽きたのか、倒れるように木を背に座り込んでしまった。呼吸が浅い。もう長くはもたないだろう。
 私は娘をただじっと見つめた。別にとって食おうなんて考えてはいない。そんな元気はこちらにもなかったし、かといって何かを施す義理も意義もない。
 娘は泣いていた。傷が痛むからだろうか。生への執着からだろうか。絶望故だろうか。はたまた希望を捨てたくないからだろうか。
 私にはわからない。狐には、獣には心がない。人の感情など知る由もなかった。
 だが、これだけはわかる。その涙は、私がかつて見慣れたそれとは違っていたのだ――そう、あの懐かしく、暖かい涙とは違っていた。
 歳を取ると過去を顧みがちでいけない。

 私の父は大層いたずら者だった。私が幼いころ、人に悪さを働き、村人に追われ命からがら巣穴に帰って来ることが度々あった。
 どうしてそんなことをするのか。子供心に尋ねてみたこともあったが、教えてはくれなかった。お前にもそのうちわかるさ、そうにやりとほくそ笑むだけだった。
 村人には目の敵にされてはいたが、赤子をさらったり、人を傷つけたりすることは絶対にしない狐だった。村人に捕まっても、袋叩きにはされこそすれ、殺されて鍋の具にされることがなかったのは今でも不思議に思う。
 そんな父が一度の過ちを犯した。
 ある日意気揚々と悪さをしに出掛けていった父が、がっくり肩を落としてこう言うのだ「わしは、すまないことをした」。
 話を聞くところ、どうやら村の者の某が母の為に捕った鰻を逃がしてしまったらしい。今日がその某の母の葬式で父は自らのしてしまったことの重みを知ったという。
 幼い私は、どの道そいつのおっかさんは死んじまうんだから。と父を励まそうとしたが、彼はただ「すまなかった」と独りごちるだけだった。
 次の日から、父はきっぱりと悪さをやめ、ひとりぼっちになった某に食い物を届けるようになった。「せめてもの罪滅ぼし」そう父は言ったが、私には意味が分からなかった。“罪滅ぼし”は人間の言葉であって、狐には存在しない概念なのだ。
 ふと、私は父がしている“罪滅ぼし”が如何なるものか気になり密かに彼の後をつけていった。無論、父の行為への好奇心だけがあったわけではない。生まれて初めて駆ける巣穴の外は、当時の私にとっては魅力的過ぎたのだ。
 忘れもしない、天高く晴れ渡る秋の日……無情にもそんな良き日に父は殺された。
 何があったか、最初は認識できなかった。
 今でも覚えている。その場に漂う鼻につんとくる嗅いだこともないような臭い、綺麗な青白い細煙、それらすべてが私の目に奇妙に、奇怪に映った。だが、死の匂いだけは、自然の中でもっともありきたりな匂いだけが、私に或る一匹の狐の終わりを物語っていた。
 それは広がりゆく煙よりもはっきりと、私の目前に横たわっていた。
「お前だったのか、いつも、栗をくれたのは」
 父の身体に穴を穿った凶器を手にしていたのは、皮肉にも、父が食い物を届け続けたあの某だった。
 私は、一瞬我を亡していたが、すぐさま父だったものの前に座り込んだ。
 すると父がふっと息を吹き返した。呼吸も絶え絶えの身体で、父は私に語りかける。それは、風が一度吹き抜けるか否かの短い時間であったが、私には何故か永久のごとく長く思われた。
「すまなかった」
 またしてもその言葉を繰り返す。目は瞑ったままなので一体全体誰に向けられた言葉なのかは皆目見当もつかない。
「人を、」
 掠れた、蚊の鳴くような声で続ける。
「人を恨まないでくれ……人は、こんなにも優しい」
 父の最期に遺した言葉は、意味がわからなかった。何故自分を殺した人間を恨むなというのか。そして“優しい”という言葉は、それ自体わけがわからなかった。
 そのまま父はまた、ぴくりとも動かなくなってしまった。
 私はそのままそこを離れることはできなかった。
 だがそれは決して親子の情などという麗しいものではない。ただ単に幼かった私は父の狩る獲物なしに今日を生きることすらできなかっただけだったのだ。
 父を失い、父から離れるということはそのまま自らの死に直結していた、無為だとわかっていても他になす術はなかった。
 あいつは鉄砲を取り落とし、私に近づいてくる。刹那、私は私の死を意識した。しかしそれは恐ろしいものではなかった。死は狐にとって忌むべきものだが、恐れるものではない、と幼いながら私の本能は淡々と語っていた。
 だが意外なことに、何も語らぬ私の瞳に映ったのはぐしゃぐしゃに顔を歪ませ涙を流した人間の姿だった。そいつは私を抱きかかえながら泣いていたのだ。ただただ「すまなかった」と繰り返しながら。
 背後を一瞥し、よくよく父の亡骸を眺めると、一筋の涙が眼から鼻を伝い、地に落ちていた。
 父はこの人間と同じように泣いていたのだろうか? そんな莫迦な。狐は泣かない。狐はそもそも悲しいなんて感情は持たない。狐は――
 何もかも思考の範疇の外にあった中、その人間の流した涙が暖かかったことだけは、はっきりと覚えている。