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孤白とゆうたろう0~一夜ばかし~

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 その日から私と某の共同生活は始まった。あいつは殺すほど憎かった狐の子に食い物と寝床を与え名前までつけて甲斐甲斐しく世話をしたのだ。
 私にはその時点で奇妙に思えたのだが、何より不思議だったのがあいつも父と同じく日に何度も「すまなかった」と私に謝ってくることだった。毎日毎日、飽きることなく私を腕に抱きながら口惜しいような、寂しいような顔をしながら。
 時は流れ、私とあいつは共に老い、あいつは病を患ってしまった。身動きできなくなってもあいつは木の実や穀物やらをどこからか見繕って、私に与えた。
「お前は最後の家族だからなあ」
 そう言うあいつの眼差しはいつもの申し訳なさそうな様子とは違っていた。かつて父が見せたような。そう、あの潤んだ眼差しだった。
 私はというと、いつもと変わらず、木の実やらをただ食んでいるだけだった。
 そうこうしているうちにあいつはぽっと、死んでしまった。すっかり口癖になった「すまなかった」を一度きり、唱えて。
 もともとひとりぼっちだった男だ、看取る者も当然いなかった。
 私はあいつが死んですぐに狭い家の離れにある倉に足を運んだ。そこに食うものがあったことを知っていたからだ。しかし小器用に戸を開けた私はそこにある景色に佇んでしまった。
 そこにはほとんど人が食っていけるような量の食いものは残ってはいなかったのだ。
 早くから予感はあった。あいつが釣りや山菜採りでその日暮らしをしていたこと。病に倒れる前に見た倉の蓄えが少なかったこと。あいつのやせ細り具合が著しかったこと……。
 食いものが増えるなんて都合の良い話は無かった。ただ、食い減らす量が減っていただけだったのだ。
 『家族』あいつが言い遺した言葉が頭を過ぎる。
 父を失い拾われただけのただの狐を、家族と思っていたのか?
 そんな狐のために、あいつは自分の飯まで分け与えたというのか?
 これが、父の言っていた“優しさ”なのだろうか。ますますまとまらない謎が頭に渦巻く。どうして人はこんな条理にそぐわないことができるのだろう。
 床の間に戻り、あいつの顔を覗き込む。しかし、その死に顔は生前のようなかげりはひとつも無かった。ひとりぼっちで寂しく死んでいったというのに一体どうしてあんな安らかな顔なのだろう?
 暫く考えをめぐらせていたが、私は腰を上げ、この家を出ることを決めた。父のときはその場を動けずにいたが、今は違う。もう私は一匹でも生きられる。
 倉にわずかに転がっていた木の実を枕元に残し、あいつに別れを告げ、その日私は野生へと還った。だがそれでも、“優しさ”の意味について、考えない日は無かった――
 
 気づくと私は娘に歩み寄りその傷を舐めてやっていた。こんなことは無意味だ。わかってはいる。だが人間は時に無駄だとわかりきっていても誰かに優しくしようとする。私はそれを知っている。だからこそそれを試しているのだ。だからこうして人の優しさに憧れた狐は、虚構の優しさを娘に押し付けているのだ。「生きろ、生きろ」と。
 そうすればあのときの、あいつの流した暖かい涙の意味と父の言っていた“優しさ”がわかるような気がしたのだ。
 すると娘の具合も徐々に違ってきた。表情は苦痛のそれから悲しみへと変質し、咽ぶようにして零れていた涙も、止めどなく流れ落ちていった。傷口に溜まった涙は、味すらも変わっていた。
 まるで、せき止めていた何かが決壊して溢れてきたかのように。
 この娘には私がどう見えているのだろうか。親切な狐? まったく笑い種だ。そんなものからもっともかけ離れた存在だというのに。
 だがそう信じることによって娘が暖かな涙を流せるのであれば、いいだろう。私はそれを演じよう。今晩ばかしは、この酔狂な化け事に付き合ってやろう。
 娘の瞳の色が流れるように移ろう。堪え切れぬ悲しみ、つらく切ない無情感、そして行き場のない憎しみ。憎悪、それは人間が持ちうる中でもっとも恐ろしいであろう“感情”。父を殺した時のあいつも同じ目をしていた。
 そのまま、暫くもしないまま娘の瞳からは光が消え、諦念が翳めた。嗚呼そうだ、人が死ぬときは、人が死を悟るときは、こんな目をするのだ。命果てたあいつもまさにそうだった。娘の、私を見つめる潤んだ視線も、あいつのそれそのものであった。
「生きろ、生きろ」
 娘の死は避けようもなくすぐそこまで迫っていた。しかし私は傷を舐めることを辞めない。
「生きろ、生きろ」
 死は殆ど娘を包み込んでいた。しかし私は傷を舐めることしかできない。
「生きろ、生きろ」
 こんな時も私は父とあいつのことを思っていた。私は彼らの様にはなれない。私は狐だから。狐に優しさなんてないから。いつしか、私の小さな胸はえも言えぬ痛みに蝕まれていた。不甲斐無い、不甲斐無い。娘の涙の味か、舐める傷も塩っぱく感じる。それでも私は涙のひとつも流せない。だって私は狐なのだから。
 ふいに、娘が私に触れた。
 もう動くほどの体力も残っていない手で、濡れた私の顔に触れた。
 もう塵ほどの希望も生気も残されていないはずの瞳で、私に潤んだ視線を送った。
 もう、息をすることすら忘れた喉で、私に何かを語りかけようとした。
 それは、どれをとっても暖かかった。
 そうしてまだ若かった娘は、よぼよぼの老狐よりも、先に逝った。
 私も娘のすぐ傍らに横絶えた。与えられた命がつきかけていたのはもちろん、もう、疲れてしまったのだろう。
 私は冷たい地面に身を預けた。――いや、もう私の体には冷たいと感じるだけの感覚ものこってはいなかった。
 天を仰ぐと、視界は灰と白に支配された。雪雲。少し早めの、冬だ。
 力は抜けていき、ゆっくり、ゆっくりと眠くなる。
 憧れた人の優しさなんてものは、狐にとっては幻影、ただの化け事だった。私が人だったならば老体に鞭打ち、人里に下り、娘の助けを求めることができのだろうか。私が人だったならばあいつの死に際を寂しいものにはしなかっただろうか。親切な狐? まったく莫迦莫迦しい。娘はその幻想に、最期まで化かされ続けた。私には……あんな暖かいものを受け取る権利なんてない。結局、私は心無い狐なのだから。
 最期に私に触れてくれた、最期に私を見ていてくれた、最期に私に語りかけようとしてくれた、暖かな人に、私は何もしてやれなかったのだ。
 しかし……せめて息絶えるならば寂しくないように娘の傍で――。
 寒空が渋りながら白雪を降らせて、少しずつ、少しずつ私たちの身体を埋めてゆく。
「――すまなかった」
 物言わぬ屍骸となった娘にぽつりと呟く。
「願わくば……人を恨まないでくれ。――人は、こんなにも愛おしい」

 捨てられた人の子と、老いた白狐の物語はここで終わって、始まった。

                             “人”
    『『もし、生まれ変われるのなら――私は      になりたい』』
                               “狐”