サメと人魚
がんばれ、青少年!
岩鳶町で祭りが開催されている。
少しまえにイカ祭りが開催されたが、今回はカニ祭りである。漁港のある岩鳶町らしい祭りだ。
頭上には夜空を背景に温かな黄色い光を放つ提灯がつらなっている。
その下には屋台が建ち並び、ひとびとがたくさんいる。
祭りはにぎわっている。
松岡凛は後輩の似鳥愛一郎と一緒に歩いていた。
鮫柄学園水泳部全員で来たのだが、神社への参詣が終わるとそれぞれ自由行動ということで解散となった。
似鳥は近くの屋台や水泳のことなど凛に話しかけ、それに対し凛は言葉少なに返事していた。似鳥は小学生のころに市の水泳大会で凛の泳ぎを見て以来、凛に憧れているらしい。
あのころとは凛は変わってしまっていた。
よく笑い、よくしゃべり、お調子者だとも言われていた、あのころ。
しかし、小学校卒業後にオリンピックの競泳の選手になるという夢を目指してオーストラリアに水泳留学し、大きな壁にぶつかった。
もう無邪気に笑えなくなった。
言葉が少なく、話しても素っ気ない口調になっていた。
高校二年の春に帰国して鮫柄学園に編入し、岩鳶高校に進学していた友人たちと廃墟となったスイミングクラブで再会し、それが転機となった。
高校水泳の競技会の地方大会で、彼らと和解し、同時にオーストラリアでの水泳留学で味わった挫折を精神的に乗り越えることができた。
それでも、完全にはもとにもどらない。
心についた傷口はふさがったが、傷跡は残っている。
それは、どうしようもない。
ふと、凛の眼がひきつけられる。
岩鳶高校水泳部員たちが向こうから歩いてきている。
彼らも凛に気づいた。
「あ、リンリンー!」
「……その呼び方やめろって言ってるだろ」
ほがらかに名を呼んで駆け寄ってくる浴衣姿の葉月渚に、凛は苦情を言った。
だが、渚はにこにこしていて気にした様子はない。昔から変わらない。その天真爛漫さで、自分のやりたいことを押し通す。
「こんばんは、凛さん」
渚を追うように竜ヶ崎怜がやってきた。怜も浴衣姿である。
「ああ」
凛は軽く挨拶を返した。
地方大会で凛は怜に大きな借りを作った。怜からは気にしなくていいと言われているものの、さすがにそういうわけにはいかなくて、どのような形でか、少しずつでもいいので、返していきたいと凛は思っている。
「凛も来てたんだね」
橘真琴が優しい声で言った。
真琴は落ち着いた色でシンプルな柄の浴衣を着ている。渋いという感じの浴衣が、背が高くて体格の良い真琴をいつもより大人っぽく見せている。
渚の話によると、真琴は岩鳶高校の女子生徒のあいだでかなり人気があるようだ。けれども、真琴はだれに対しても優しいので、舞いあがったあとで誤解だと気づいた女子高生も多く、橘真琴の優しさには気をつけるように、とも言われているらしい。
その真琴の隣に、七瀬遙がいる。
遙は落ち着いたデザインの浴衣を着ていた。
家が近くて長年の付き合いのある幼なじみだからだろう、遙と真琴の立ち位置は近い。
ふたりは似合いの美男美女カップルに見える。
凛は少し歯を食いしばった。
胸に、あせるような気持ちがあった。
そんな凛をよそに、似鳥と渚が屋台の話で盛りあがっている。
渚がクリクリした眼を凛に向けた。
「凛ちゃんはどの屋台に行きたいの?」
「どこにも興味ねぇよ」
「あっ、あそこで射的やってる!」
素っ気なく答えた凛の返事をまったく無視して、渚は凛の向こうにある屋台を指さし顔を輝かせた。
「凛ちゃん、射的もうまそうだよね。でも、ハルちゃんは弓道が得意だし、凛ちゃんと勝負したらハルちゃんが勝つかもね」
勝負、と聞いて、凛の中で気分がすっと切り替わった。
凛は渚のほうに向けていた顔を遙のほうに向ける。
視線が遙の静かな黒い瞳とぶつかる。
凛は告げる。
「ハル、勝負しようぜ」
絶対に勝つつもりで、遙を見る。
遙はその強い眼差しにひるむことなく、口を開く。
「受けてたつ」
いつもクールで無表情であるのに、今は挑発的と言っていいぐらいの強い表情で、きっぱり宣言した。
射的ではどちらも見事な腕前を披露して決着がつかなかった。
それでは凛も遙も納得がいかず、勝負ができそうな屋台にどんどん進んでいった。
渚たちは最初はふたりの勝負をおもしろがっていたが、やがて、あきてきたらしい。
気がつけば、凛と遙以外の者たちは帰っていた。
時間が遅くなってきた。
祭り会場にいるひとも少なくなった。
しばらくまえはにぎわっていたぶん、寂しく感じる。
「……納得いかねぇが、帰るか」
「そうだな」
ふたり、肩を並べて会場をあとにする。
さっきまでの勝負の話などをしながら歩く。
ふと。
「凛」
遙が足を止めた。
「駅はあっちだぞ」
いつもの感情のこもらない声で告げつつ、遙は凛が進もうとしているのとは違う方向を指さした。
凛も立ち止まった。
凛は鮫柄学園で寮生活をしていて、寮に帰るなら岩鳶駅から電車に乗ることになる。
駅の方角なんて、もちろん知ってる。
ここで遙と帰り道が別れることを、知ってる。
凛は苦虫を噛みつぶしたような顔をして、言う。
「家まで送る」
「送ってくれなくていい」
すぐに遙がいつもの声で言い返してきた。
本当にコイツは可愛げがねぇ、と凛は胸のなかでうめいた。
わかったと言って駅のほうへ進みたくなる。
だが。
そういうわけにはいかない。
「こんな時間に女をひとりで帰らすのは、オレが落ち着かねぇんだよ!」
凛はぶっきらぼうに言った。
少しして。
「勝手にすればいい」
落ち着いた声で遙が返事した。
それから、また、ふたり、肩を並べて歩きだす。
駅とは違う方向に進んでいるので、道にひとが少なくなる。
車道側を歩く凛は潮の香りのする風を頬に感じた。
隣を歩く遙の向こうには堤防があり、その向こうには夜の海がある。
「……おまえは海が恐くないのか?」
遙が聞いてきた。
その質問の深い意味を、凛はわかっている。
凛の父親は漁師だった。そして、凛がまだ幼かったころに、漁港から三キロも離れていないところで船が沈み、亡くなった。
父親を海に呑みこまれたのだ。
それでも。
「あたりまえだろ」
凛は余裕たっぷりに答えた。
本心だ。
泳ぐのが好きな自分は、海を憎む気持ちも恐れる気持ちもない。
「おまえは水泳バカだからな」
「おまえには言われたくねーよ」
夜の薄い闇の中を進む遙の横顔が、少し笑ったように見えた。
会話が途切れ、あたりが静かなので、波の音が耳に響くようになる。
凛はチラッと遙の手を見た。
手ぇ、つなぎてえええええええええ。
そう胸の中で叫んだ。
しかし、そんなことは言えない。そう思っていることを顔に出したくもないので、厳しい表情を作る。
やがて、ふたりは石段をのぼり始めた。
小高い山の上にある神社へと続く石段だ。
遙の家は石段を半分ほどのぼったところにある一の鳥居を左に曲がって進んだ先にある。
瓦屋根の二階建ての和風建築だ。
玄関の引き戸の横には、七瀬、と記された表札がある。
その少し手前で凛は立ち止まった。
「じゃあな」
引き戸のまえまで進んでいく遙の背中に声をかけると、凛は踵を返した。
帰ろうとした。
そのとき。
「凛」
名を呼ばれた。
だから、凛は足を止め、振り返った。