サメと人魚
息ができない
日中は薄青い空の下でカラリと乾いた空気の中でも陽ざしは厳しいが、夜になると秋らしく肌寒いぐらい冷えてくる。
凛はパーカーを羽織って鮫柄学園学生寮の自室のベランダにいた。
携帯電話を顔の横にやっている。
耳に響いているのは、呼び出し音。
どうせ出ない。
予想していた。
わかっている、そんなこと。
出なくてもいい。いや、いっそ、出ないでくれたらいい。
そう思って、かけた。
呼び出し音が続くのを聞きながら心が静まるのを待つ。
だが。
呼び出し音が途切れた。
直後。
『はい』
遙の声。
『なんだ、凛』
心臓が少し跳ねあがった。
その声を、今、聞くと予想してなかった。
「……まさか出るなんてな」
いつも携帯電話を置き去りにして存在を忘れているくせに。
「ああ、今は夜で、家にいるからか」
置き去りにしている場所が家なら、その存在を忘れていても自分のいる場所にある携帯電話が鳴っていれば気づくし出るというわけだ。
『それで、なんの用だ』
冷静で硬質な声がふたたび問いかけてきた。
凛は眼を細め、奥歯を噛みしめる。
しまった、と思った。
本当に相手が電話に出る予定ではなかった。
話をする予定ではなかった。
電話をかけた理由を話すつもりはなかったのだ。
「……くだらねぇことだ」
素っ気なく凛は言う。
「聞いても、めんどくせぇって思うだけだ」
自分からかけたのに、かけた理由を話さずに終わりにして電話を今すぐ切ってしまいたかった。
遙はいつもマイペースで、他人とは少し距離を置いているところがあり、こちらが退けば深追いはしないタイプだ。
だから遙はあっさり電話を終わらせるだろうと、凛は予想していた。
しかし。
『それでも、聞きたい』
電話の向こうで遙はきっぱりと言った。
めずらしく、深追いしてきた。めずらしく、面倒くさがらなかった。
凛は眼を大きく開く。
それから、その眼を閉じた。
ああ。
クソッ。
逃げ道を失った。
携帯電話を持っていないほうの手を拳にして強く握りしめる。
「……本当にくだらねぇ話だ」
話す予定ではなかった。
話すつもりではなかった。
こんなこと、だれにも話したくなかった。
くだらないことだから。
「今日、進路指導の先生と話した。そんときに言われた。おまえが水泳に打ちこんでいるのは知っている。だが、おまえの頭なら、しっかり勉強すれば、難関国立大学を充分狙える。おまえの夢を応援したい気持ちはあるが、水泳は趣味ではダメか、実現出来そうな目標に軌道修正しないか、って言われた」
話したくなかった。
くだらなさなすぎる。
「うちは私立だからな、難関大学の合格者が何人とかって宣伝する人数、増やしてぇんだろ」
鮫柄学園は水泳部の強豪校としてだけでなく進学校としても知られている。
その中にいて、凛は水泳のために時間をかけているぶん勉強はあまりしていないのに、テストでは全教科で学年上位に入っている。
『それだけじゃないと思う』
いつもの冷静な声で遙は話す。
『その先生はおまえのためを思って言ったんだろう』
「そんなこと、わかってる!」
遙の言葉が終わった直後に、凛は噛みつくように声を荒げて言った。
わかっている。
大きな夢を語るのが小学生ぐらいの子供なら大人は微笑ましく思うだろう。
しかし、社会人ではなく成人してもいなくて、まだ大人とは見なされない年齢ではあるが、高校二年生の自分が大きい夢を語るのを聞いて、大人はどう思うだろうか。
大きすぎる夢。かなう可能性の低そうな夢。
心配、するだろう。
軌道修正をすすめたのは、学園の宣伝のためではなくて、純粋にそのほうが凛のためになると考えたからかもしれない。
実現できそうな目標に設定し直したほうが、この先、大きく傷つかずに済み、達成感を得られると考えたからかもしれない。
そんなこと、わかってる。
だから苦しい。
今日も放課後に水泳部の練習があって室内プールで泳いだ。
がむしゃらと言ってもいいぐらい泳いだ。
泳いで、自分の中にあるものを吹っ切ってしまいたかった。
けれども苦しいままだった。
練習が終わって、シャワーを浴びて、寮の自分の部屋にもどってからも苦しかった。
まるで水の中にいて息ができないみたいだった。
心配しているのは、まわりの大人だけじゃない。
自分だってそうだ。
小学校を卒業して、オーストラリアに水泳留学して大きな壁にぶつかった。
自分の思い描いた夢は大きすぎて、とてもかなえられないのではないかと感じた。
そんな夢を語った自分がバカだったようにも感じた。
本気で水泳をやめようとも思った。
不安にならないわけがない。
苦しくて、息ができないような感じがして、だからベランダに出て、いつのまにか遙に電話をかけていた。
電話に出なくていいと思った。
むしろ出ないでくれたらいいと思った。
だって。
こんな。
情けねぇ。
「……悪ィ、愚痴った」
黙っている遙に対し、謝る。
こんなくだらなくて情けなくて重い話を他人にしたくなかった。
『……別に』
遙は声の調子を変えることなく言う。
『どうでもいいことだ』
突き放されたように凛は感じた。
けれども、遙の話には続きがあった。
『おまえが軌道修正してエリートを目指すことにしても、どうでもいいし、おまえがロマンチストすぎる夢を語っても、どうでもいい』
遙は淡々と話す。
『もし、おまえが夢破れて、一般的に見て良いとは言えない暮らしをすることになっても、どうでもいい』
そして、続ける。
『おまえが大切な存在であるのは変わらない』
心臓が大きく強く打った。
打たれた胸が痛いぐらいだ。
凛は眼を閉じ、胸を押さえる。
心臓が激しく脈打っている。
一気に体温が上昇したように感じる。
なんだこれ。
さっきまでとは違う感じで、息苦しい。
「ハル」
衝動にかられる。
ついさっき遙が言った大切な存在とは、大切な仲間という意味だろうと、わかっている。
わかっているが、言いたい。
自分の中にある想いを告げたい。
「オレは」
『あ』
ふいに遙が声をあげた。
『台所から焦げてるにおいがする』
「え」
『そういえば、煮物を作っている途中だった』
煮物を作るのには時間がかかる。鍋を火にかけて煮込んでいる途中で遙は台所を離れ、そして居間に置きっぱなしにしていた携帯電話が鳴っていることに気づいて出たのだろう。
やがて鍋の中は水分を失ったのだろう。
状況を想像し、凛は怒鳴った。
「早く火を消せ!」
遙からの返事はない。
台所に向かっているのだろう。
その台所は、今、どうなっているのだろうか。
遙がなにも言わないのでわからない。
わからないので、凛は大急ぎでベランダから部屋にもどる。
部屋には似鳥がいて「凛先輩」と声をかけてきたが、眼もくれずに凛は部屋を横断し、自室から出る。
寮の廊下を走りながら、凛は悪い想像をする。
水分を失った鍋は火にかけられたままで燃えているのではないだろうか。
火事。
こういう場合はどうすればいいのか。
あせる。
遙が携帯電話を持って移動したかどうかは不明だが、聞いているとして、凛は携帯電話に向かって言う。
「燃えてんのなら、火が大きいのなら、無理に消そうとするな」
一番大切なことはなにか、それは、はっきりしている。