僕は摂氏36度で君に溶ける
1
※わかりにくくて申し訳ないですが、「彼」と「男」を区別しております。
冬の地下街は「寒い」と端的に言うよりも「凍るように冷たい」と表現したほうが相応しい。彼は少しでも暖を逃さないように、首元のスカーフに顎を埋めた。
ここはひどく、冷たい。この様子だと、地上では雪が降っているだろう。早めの夕食である林檎を齧りながらぼんやりと地上を思い、歩く。
今日の午後は仕事の予定がない。ゆっくり昼寝でもしようと思っていたのだが、あまりの気温の低さに惰眠を邪魔された。一度目が覚めてしまうと、なかなか眠れない。仕方なく一時的に寝床にしていた場所を後にし、彼は地下街を彷徨っていた。
辺りには寒さで凍死してしまったヒトの死体が転がっている。彼はその屍を踏み越えて進んだ。弱肉強食のこの世界で、情けは無用。他人に構っていられる余裕など、ない。人通りや気温から予想して、今は夕方だ。それでもかなりの寒さだ。日中でもほとんど陽の光が当たらないここで冬を越すのはかなり困難なことである。冬を乗り越える術を知らないものは、脱落していく。
この厳しい環境下で育った彼は、その中で生き抜いていくことこそが、生きる意味であった。日雇いの仕事を請け負い、定住せずにあちこちを彷徨う。ときには命の危険を感じる危ない仕事もあったが、金のためなら仕事は選ばない。徒党を組むのが当たり前のこの場所で、一匹狼の彼は様々な理由で人目を惹いた。それは、その小ささであったり、見かけによらない強さであったり、その不思議な生態であったり。その気はなかったが、今では彼はこの地下街でよく顔が知られ、地下街の化け物とまで呼ばれるようになった。彼を慕うものも多い。地下街の希望として彼を崇める人々もいる。そんな人たちを牽制するために憲兵団や駐屯兵団が彼を捕えに来たことも幾度もあった。もちろん返り討ちにしてやったが。
ーーだから、珍しくもない。
「君が、地下街の化け物か?」
こんな風に、兵団の人間に声をかけられるのは。
自分を探す兵団の人間が無関係の人に被害を与えることがないように、彼は彼自身の目印となる青の布を首に巻き、そして「地下街の化け物は青いスカーフを身につけている」という情報を意図的にばらまいていた。
「そうだが」
うさんくさい笑みを浮かべて、その男はよかった、とつぶやいた。
「素敵なスカーフだ。いい色をしている」
怪訝に思い彼は男を見上げた。俺を縄にかけに来たのではないのか、と。
男はその疑問を察したように言う。
「私は君を捕らえに来たんじゃないんだ。頼みがあって来た。ーー私の兵器になってくれ」
男に目をまっすぐに見つめられ、彼は視線を足元に落とした。そしてこの男は突然何を言い出すんだ、と呆れる。言葉も出ないので、食べ終わった林檎の芯をポケットのハンカチに包んでそのままズボンに突っ込んだ。ポイ捨てはしない主義だ。そして、代わりにそのポケットからバタフライナイフを取り出す。
「自分が何言ってんのか分かってるのか?」
脅すようにナイフの先で彼の心臓を指した。
「もちろん、分かっている。君が憲兵団ではお尋ね者の扱いであることも、そしてそれほどに強いってこともね」
男は動じず、それどころか堂々と続ける。
「その上でもう一度言うよ」
一呼吸おいて、男はまるで男女が愛を囁くときのような声で言った。
「私にはどうしても君が必要なんだ。一緒に来てくれ、頼む」
その言葉は、衝撃であった。彼に「必要」なのは生きるための仕事であったり、金であったり、食糧、そしてときには身を護るための強さであった。誰か「人」が必要だと思ったことなど一度もない。同様に誰かに必要とされたことも。彼は汚い地下街の化け物だ。自分を慕う人間もいるが、それは自分ではなく強さへの憧れが高じたものに過ぎないと彼はよく理解していた。
しかし、この男は。
自分を、必要だと、言った。
その震撼は彼の全身を走り、心臓を鷲掴みにした。
キュウ、と痛む胸を服の上から押さえ、彼は眉間にしわを寄せて訊ねる。
「名前は」
彼の問いに男は首をかしげた。
「てめえの、名前だ」
ああ、と理解の相槌を打って、男が言った。
「エルヴィン。エルヴィン・スミスだ」
彼は、その名を心臓に刻む。エルヴィン・スミスという名のこの男が自分に何を求めているのか彼には分らなかったが、それでも彼は、この男に付いていくことを早々に決めた。この男を信用したわけではない。彼は自分の存在意義を、喉から手が出るほどに欲していたのだ。生きる意味さえあれば、他にはもう何も望むものはない。無意味に生きる地下街での生活は彼をひどくストイックで、かつ強欲にさせた。
「君は? まさか地下街の怪物、なんて名前じゃないだろ?」
エルヴィン・スミスが尋ねる。
「似たようなもんだ。レヴィ、と呼ばれているが、本当の名前は知らない。ないかもしれない」
なるほど、と男がうなずく。
「レヴィはレヴィアタンからとっているのかな」
レヴィアタン、うみの怪物。地上では壁外の情報が規制されているらしいが、地下街の人間にとっては地上も壁外も大差なく。わざわざ地上に出たいものもいなければ、壁外に行きたいものもいないので、規制の必要がないのだろう。壁外の情報を持った者など、地下街にはごまんといた。
「うみ」や、それにまつわる神話の類の話題は暇つぶしと称してよく語られる。海という得体の知れない場所に住む得体の知れない怪物、レヴィアタン。だれが言い出したのかは知らないが、いつしか地下街の化け物はそれを縮めてレヴィ、と呼ばれていた。
「スペルはL-e-v-iだね? ならば君の名前は今日からリヴァイだ。怪物からとったのではないよ。古くからの言葉で結びつき、という意味だ」
まだレヴィは男の要求に対する返事をしていないのにも関わらず、エルヴィン・スミスは彼に名前をつけた。
「リ、ヴァ、イ」
思わずレヴィは発音してみる。名前など、単に自分を表す記号の一種でしかないと考えていたレヴィだが、それは呼ぶ人間がレヴィを「化け物」という名で呼ぶからだ。化け物ではないならば自分は何なのか。
その答えは先ほど告げられた。エルヴィン・スミスの必要とする存在、だ。「リヴァイ」はエルヴィン・スミスからもらった贈り物であった。
「よろしく、リヴァイ」
「よろしくするかどうかはこれから決める」
差し出された男の手を払って、けれどリヴァイはバタフライナイフをポケットに戻し、首元の青いスカーフを外した。
怪物とはさよならだ。
エルヴィン・スミスが掌を上に向けた。
「それを、私にくれないかい?」
男が望むなら、とリヴァイは素直に布を差し出した。
「うみの怪物」はエルヴィン・スミスの手によって丁寧に畳まれ、その懐に封印された。
この日、彼は名前と存在意義を、男は兵器を、手に入れた。
これは奇しくもクリスマスの夜のことである。
街にはクリスマスを祝う人々で溢れているが、二人もまた、それぞれ異なった理由で喜びを感じているのであった。
※わかりにくくて申し訳ないですが、「彼」と「男」を区別しております。
冬の地下街は「寒い」と端的に言うよりも「凍るように冷たい」と表現したほうが相応しい。彼は少しでも暖を逃さないように、首元のスカーフに顎を埋めた。
ここはひどく、冷たい。この様子だと、地上では雪が降っているだろう。早めの夕食である林檎を齧りながらぼんやりと地上を思い、歩く。
今日の午後は仕事の予定がない。ゆっくり昼寝でもしようと思っていたのだが、あまりの気温の低さに惰眠を邪魔された。一度目が覚めてしまうと、なかなか眠れない。仕方なく一時的に寝床にしていた場所を後にし、彼は地下街を彷徨っていた。
辺りには寒さで凍死してしまったヒトの死体が転がっている。彼はその屍を踏み越えて進んだ。弱肉強食のこの世界で、情けは無用。他人に構っていられる余裕など、ない。人通りや気温から予想して、今は夕方だ。それでもかなりの寒さだ。日中でもほとんど陽の光が当たらないここで冬を越すのはかなり困難なことである。冬を乗り越える術を知らないものは、脱落していく。
この厳しい環境下で育った彼は、その中で生き抜いていくことこそが、生きる意味であった。日雇いの仕事を請け負い、定住せずにあちこちを彷徨う。ときには命の危険を感じる危ない仕事もあったが、金のためなら仕事は選ばない。徒党を組むのが当たり前のこの場所で、一匹狼の彼は様々な理由で人目を惹いた。それは、その小ささであったり、見かけによらない強さであったり、その不思議な生態であったり。その気はなかったが、今では彼はこの地下街でよく顔が知られ、地下街の化け物とまで呼ばれるようになった。彼を慕うものも多い。地下街の希望として彼を崇める人々もいる。そんな人たちを牽制するために憲兵団や駐屯兵団が彼を捕えに来たことも幾度もあった。もちろん返り討ちにしてやったが。
ーーだから、珍しくもない。
「君が、地下街の化け物か?」
こんな風に、兵団の人間に声をかけられるのは。
自分を探す兵団の人間が無関係の人に被害を与えることがないように、彼は彼自身の目印となる青の布を首に巻き、そして「地下街の化け物は青いスカーフを身につけている」という情報を意図的にばらまいていた。
「そうだが」
うさんくさい笑みを浮かべて、その男はよかった、とつぶやいた。
「素敵なスカーフだ。いい色をしている」
怪訝に思い彼は男を見上げた。俺を縄にかけに来たのではないのか、と。
男はその疑問を察したように言う。
「私は君を捕らえに来たんじゃないんだ。頼みがあって来た。ーー私の兵器になってくれ」
男に目をまっすぐに見つめられ、彼は視線を足元に落とした。そしてこの男は突然何を言い出すんだ、と呆れる。言葉も出ないので、食べ終わった林檎の芯をポケットのハンカチに包んでそのままズボンに突っ込んだ。ポイ捨てはしない主義だ。そして、代わりにそのポケットからバタフライナイフを取り出す。
「自分が何言ってんのか分かってるのか?」
脅すようにナイフの先で彼の心臓を指した。
「もちろん、分かっている。君が憲兵団ではお尋ね者の扱いであることも、そしてそれほどに強いってこともね」
男は動じず、それどころか堂々と続ける。
「その上でもう一度言うよ」
一呼吸おいて、男はまるで男女が愛を囁くときのような声で言った。
「私にはどうしても君が必要なんだ。一緒に来てくれ、頼む」
その言葉は、衝撃であった。彼に「必要」なのは生きるための仕事であったり、金であったり、食糧、そしてときには身を護るための強さであった。誰か「人」が必要だと思ったことなど一度もない。同様に誰かに必要とされたことも。彼は汚い地下街の化け物だ。自分を慕う人間もいるが、それは自分ではなく強さへの憧れが高じたものに過ぎないと彼はよく理解していた。
しかし、この男は。
自分を、必要だと、言った。
その震撼は彼の全身を走り、心臓を鷲掴みにした。
キュウ、と痛む胸を服の上から押さえ、彼は眉間にしわを寄せて訊ねる。
「名前は」
彼の問いに男は首をかしげた。
「てめえの、名前だ」
ああ、と理解の相槌を打って、男が言った。
「エルヴィン。エルヴィン・スミスだ」
彼は、その名を心臓に刻む。エルヴィン・スミスという名のこの男が自分に何を求めているのか彼には分らなかったが、それでも彼は、この男に付いていくことを早々に決めた。この男を信用したわけではない。彼は自分の存在意義を、喉から手が出るほどに欲していたのだ。生きる意味さえあれば、他にはもう何も望むものはない。無意味に生きる地下街での生活は彼をひどくストイックで、かつ強欲にさせた。
「君は? まさか地下街の怪物、なんて名前じゃないだろ?」
エルヴィン・スミスが尋ねる。
「似たようなもんだ。レヴィ、と呼ばれているが、本当の名前は知らない。ないかもしれない」
なるほど、と男がうなずく。
「レヴィはレヴィアタンからとっているのかな」
レヴィアタン、うみの怪物。地上では壁外の情報が規制されているらしいが、地下街の人間にとっては地上も壁外も大差なく。わざわざ地上に出たいものもいなければ、壁外に行きたいものもいないので、規制の必要がないのだろう。壁外の情報を持った者など、地下街にはごまんといた。
「うみ」や、それにまつわる神話の類の話題は暇つぶしと称してよく語られる。海という得体の知れない場所に住む得体の知れない怪物、レヴィアタン。だれが言い出したのかは知らないが、いつしか地下街の化け物はそれを縮めてレヴィ、と呼ばれていた。
「スペルはL-e-v-iだね? ならば君の名前は今日からリヴァイだ。怪物からとったのではないよ。古くからの言葉で結びつき、という意味だ」
まだレヴィは男の要求に対する返事をしていないのにも関わらず、エルヴィン・スミスは彼に名前をつけた。
「リ、ヴァ、イ」
思わずレヴィは発音してみる。名前など、単に自分を表す記号の一種でしかないと考えていたレヴィだが、それは呼ぶ人間がレヴィを「化け物」という名で呼ぶからだ。化け物ではないならば自分は何なのか。
その答えは先ほど告げられた。エルヴィン・スミスの必要とする存在、だ。「リヴァイ」はエルヴィン・スミスからもらった贈り物であった。
「よろしく、リヴァイ」
「よろしくするかどうかはこれから決める」
差し出された男の手を払って、けれどリヴァイはバタフライナイフをポケットに戻し、首元の青いスカーフを外した。
怪物とはさよならだ。
エルヴィン・スミスが掌を上に向けた。
「それを、私にくれないかい?」
男が望むなら、とリヴァイは素直に布を差し出した。
「うみの怪物」はエルヴィン・スミスの手によって丁寧に畳まれ、その懐に封印された。
この日、彼は名前と存在意義を、男は兵器を、手に入れた。
これは奇しくもクリスマスの夜のことである。
街にはクリスマスを祝う人々で溢れているが、二人もまた、それぞれ異なった理由で喜びを感じているのであった。
作品名:僕は摂氏36度で君に溶ける 作家名:かん