スズメの足音(後)差分
うんともすんとも言わない携帯をそっと上着のポケットに戻した。
返事を待っているメールは来ないが、要らない誘いは舞い込んでくる。つい最近も何かの用事のついでで会ったはずの旭に誘われて食事に来ていた。
「俺ばっかり誘ってるじゃん。大地も誘ってよ」
と言うが、俺が旭の顔を見たくなるより先に旭から次の誘いがくるのだ。こんな調子でも大学の友達付き合いも充分こなしているというから不思議だ。
「あれ、また携帯見てたのか。大地が、珍しいなあ」
「一昨日送ったメールの返事が来ないから、体調でも崩してるのかと心配になってただけだ」
誰が、とは言わなかったのに、当たり前のような顔で旭が頷いた。
「スガか。一日もあれば絶対返してくるもんな」
「…………」
「この間の風邪はもう治ってると思うけど、またインフル流行ってるみたいだしな」
お通しの切り干し大根を摘みながら聞いていない話をする。頭ごと振り向いて見据えると、あからさまに「しまった」という顔をした。
「この間っていつの話だ?」
「え、えーっと……この間の土曜?」
「そんなに具合悪かったのか?」
「まあ、寝込んでたぐらいだし…………いやっ!いや、でも月曜に治ったって連絡来てたからっ」
「俺には何の連絡もきてなかったが」
「そりゃあ…………」
何か知っている。でもすぐに大きな両手を口に当てて首を振った。舌打ちしてスガに電話をかける。
「だ、大地、ホントにスガが自分でもう大丈夫だって……」
「…………出ない。ちょっと顔見に行ってくる」
「えぇー?今から?」
上着を取って立ち上がると呆れ声が焦りに変わる。
「ちょっと大地、頼んだ料理まだ出てきてもないのに……」
「全部やる」
そう言って財布から割り勘代には充分な金額を置いて店を出た。旭は一度中腰になったものの、自分まで料理を待たずに出るわけにもいかず追ってこなかった。後で追加注文するつもりで頼んだから、一人でも食べきれるだろう。
駅のホームに立つのと同時に電車が滑りこんでくる。ほとんど足を止めることなく乗り込んだ。時計を見る。思っていたより遅くに着くことになりそうだ。背中を閉ざされた扉に預けてそっと目を閉じた。
後一時間授業を受けたら昼休み、という短い休み時間をぼんやりと過ごしていた。次も移動なく教室で座学だ。机に突っ伏したら負けのような気がして、椅子の背もたれを支えに座ってそっと目を閉じた。喧騒が遠い。と思った時、旭の声が聞こえた。気のせいかと疑いつつ目を開ければ、教室の入口からこちらへほぼ一直線に向かってくるスガが見えた。
椅子や生徒、乱れた机など、障害物はいくらでもあるはずだが、まっすぐこちらを見据えて向かってくる様子は一直線以外に言い様がない。そんなスガの向こう側、教室の入り口に背中を丸めた旭を発見した。幻聴ではなかったようだ。
スガは無言ですぐ横まで来て、予告なく額に手を当てた。あまりに迷いのない行動に、避けることも出来なかった。
「三九度」
「……そんなにないよ」
手を軽く振り払ってなるべく平気そうに見えるよう表情を作った。スガに通用するとも思わないが。
「保健室いくべ」
「大丈夫だって。この後は午後も座りっぱなしだし、放課後には落ち着いてる」
「そんな自信あるなら保健室で熱計るぐらいいいだろ。行くぞ」
「でも……」
「わがまま禁止!」
腕を引っ張りあげられ渋々立つと、すぐ近くまで来ていた旭がスガを眩しそうに見つめて「大地にそんなこと言えるのはスガだけ……」と呟くので脛を蹴っておいた。
その日は朝練もなく、二クラス離れているおかげで体育も合同でないスガとは会わないで過ごしていた。朝から調子が悪かったから、休み時間も極力教室の自分の席を動かなかったぐらいだ。
結局三人で保健室に向かうことになった。付き添いのスガはいいとしても、旭は完全におまけだったが。
「旭、スガに余計なこと言ったろ」
ズンズン先頭を歩いて行くスガの背後で声をひそめる。
「余計なことって、調子悪そうだったのはホントだろ?」
「だったらスガに言わず直接俺に言えよ」
一時間目が旭のクラスと合同の体育で、不調を見破られても「大丈夫だ」と言えば旭は引き下がった。大きな体に似合わず気が小さいので、強く言われるとそれ以上食い下がれないのだ。
「大地」
コソコソ話している俺たちを振り返らずにスガが低い声で呼んだ瞬間、俺と、ついでに旭は、あからさまに肩をびくつかせてしまった。
「旭に聞かなくたって昼にでも会ったらバレるんだから観念しろよ」
「でも、なぁ……」
「でもじゃない。三八度以上あったらちゃんと早退して休めよ」
「断る」
「少なくとも部活に来たら追い返すからな」
「馬鹿言うなよ。今俺が休むわけには……」
「一日ぐらいいなくたって大丈夫だから休め!」
ハッキリ言われて腹が立った。高校二年の六月のおわり。三年生が引退して、俺が主将、スガが副主将になって間もなく、名将と謳われた烏養監督復帰の噂が流れる中、浮き足立ったチームをまとめるのに必死だった時だ。
雨が降りだしてすぐに幼い弟が風邪を引いて、どうやらそれをもらったらしかった。とはいえ、小学校に上がったばかりの弟と高校生の自分では体力も身体の丈夫さも違う。少しの熱や倦怠感で休むわけにはいかない。三年生が引退してから、練習のやり方を少し変え、烏野が強豪だった頃の練習にもついていけるようメニューを少し厳しくした。烏養監督が復帰する今年、それから来年こそが全国の舞台へ舞い戻る時だと信じて。
そんな大事な時期に主将が風邪で休むなんてありえない。それをスガはすっぱり否定した。
「大地がいなくても俺と旭でちゃんとやっとくから心配要らないから」
「……俺がいなくてもいいって?」
体調が悪いせいで感情のコントロールが上手くなくて、普段よりも素直に憤りが声に出た。保健室の引き戸に手をかけてピタリととまったスガが日頃の愛嬌を剥ぎ取ったような顔で睨んだ。さすがに怯む。
「……質問で返すけど、大地は俺たちのこと信頼出来ないって?」
「!」
「大地と同じにやれるわけじゃないけど、一日ぐらいフォローできると、俺は思ってるんだけど?」
大きめの目が突き刺すようにこちらを見ている。細い矢じゃなく、太い槍みたいな。スガは顔の作りが小奇麗で、よく笑うから優しそうに見えるし、それで最初は舐められることだってある。でも、まともに付き合うとそればっかりじゃないのがわかる。芯が強くて、ここぞというときは、少し恐い。
見つめ合っていられなくなって視線を落とした。
「…………悪かった。今日のことは任せて休ませてもらう」
いつの間にか俺の背中に隠れていた旭が背後で安堵の息を吐いた。
養護教諭に早退許可証の記入を頼んで熱を計っていると、今まで堪えていた分まで熱が上がっていくようなどうしようもない倦怠感に襲われた。一度認めてしまうとダメだ。気持ちまで緩んできてため息が漏れた。
「……やっぱり部活、休みたくないな」
「大地、」
「大丈夫。わかってるよ」
素早く咎めるスガに手を上げて完全降伏した。こういう時のスガに逆らうのは、熱でフラフラの頭じゃ無理だ。万全の体調でも怪しいかもしれない。
返事を待っているメールは来ないが、要らない誘いは舞い込んでくる。つい最近も何かの用事のついでで会ったはずの旭に誘われて食事に来ていた。
「俺ばっかり誘ってるじゃん。大地も誘ってよ」
と言うが、俺が旭の顔を見たくなるより先に旭から次の誘いがくるのだ。こんな調子でも大学の友達付き合いも充分こなしているというから不思議だ。
「あれ、また携帯見てたのか。大地が、珍しいなあ」
「一昨日送ったメールの返事が来ないから、体調でも崩してるのかと心配になってただけだ」
誰が、とは言わなかったのに、当たり前のような顔で旭が頷いた。
「スガか。一日もあれば絶対返してくるもんな」
「…………」
「この間の風邪はもう治ってると思うけど、またインフル流行ってるみたいだしな」
お通しの切り干し大根を摘みながら聞いていない話をする。頭ごと振り向いて見据えると、あからさまに「しまった」という顔をした。
「この間っていつの話だ?」
「え、えーっと……この間の土曜?」
「そんなに具合悪かったのか?」
「まあ、寝込んでたぐらいだし…………いやっ!いや、でも月曜に治ったって連絡来てたからっ」
「俺には何の連絡もきてなかったが」
「そりゃあ…………」
何か知っている。でもすぐに大きな両手を口に当てて首を振った。舌打ちしてスガに電話をかける。
「だ、大地、ホントにスガが自分でもう大丈夫だって……」
「…………出ない。ちょっと顔見に行ってくる」
「えぇー?今から?」
上着を取って立ち上がると呆れ声が焦りに変わる。
「ちょっと大地、頼んだ料理まだ出てきてもないのに……」
「全部やる」
そう言って財布から割り勘代には充分な金額を置いて店を出た。旭は一度中腰になったものの、自分まで料理を待たずに出るわけにもいかず追ってこなかった。後で追加注文するつもりで頼んだから、一人でも食べきれるだろう。
駅のホームに立つのと同時に電車が滑りこんでくる。ほとんど足を止めることなく乗り込んだ。時計を見る。思っていたより遅くに着くことになりそうだ。背中を閉ざされた扉に預けてそっと目を閉じた。
後一時間授業を受けたら昼休み、という短い休み時間をぼんやりと過ごしていた。次も移動なく教室で座学だ。机に突っ伏したら負けのような気がして、椅子の背もたれを支えに座ってそっと目を閉じた。喧騒が遠い。と思った時、旭の声が聞こえた。気のせいかと疑いつつ目を開ければ、教室の入口からこちらへほぼ一直線に向かってくるスガが見えた。
椅子や生徒、乱れた机など、障害物はいくらでもあるはずだが、まっすぐこちらを見据えて向かってくる様子は一直線以外に言い様がない。そんなスガの向こう側、教室の入り口に背中を丸めた旭を発見した。幻聴ではなかったようだ。
スガは無言ですぐ横まで来て、予告なく額に手を当てた。あまりに迷いのない行動に、避けることも出来なかった。
「三九度」
「……そんなにないよ」
手を軽く振り払ってなるべく平気そうに見えるよう表情を作った。スガに通用するとも思わないが。
「保健室いくべ」
「大丈夫だって。この後は午後も座りっぱなしだし、放課後には落ち着いてる」
「そんな自信あるなら保健室で熱計るぐらいいいだろ。行くぞ」
「でも……」
「わがまま禁止!」
腕を引っ張りあげられ渋々立つと、すぐ近くまで来ていた旭がスガを眩しそうに見つめて「大地にそんなこと言えるのはスガだけ……」と呟くので脛を蹴っておいた。
その日は朝練もなく、二クラス離れているおかげで体育も合同でないスガとは会わないで過ごしていた。朝から調子が悪かったから、休み時間も極力教室の自分の席を動かなかったぐらいだ。
結局三人で保健室に向かうことになった。付き添いのスガはいいとしても、旭は完全におまけだったが。
「旭、スガに余計なこと言ったろ」
ズンズン先頭を歩いて行くスガの背後で声をひそめる。
「余計なことって、調子悪そうだったのはホントだろ?」
「だったらスガに言わず直接俺に言えよ」
一時間目が旭のクラスと合同の体育で、不調を見破られても「大丈夫だ」と言えば旭は引き下がった。大きな体に似合わず気が小さいので、強く言われるとそれ以上食い下がれないのだ。
「大地」
コソコソ話している俺たちを振り返らずにスガが低い声で呼んだ瞬間、俺と、ついでに旭は、あからさまに肩をびくつかせてしまった。
「旭に聞かなくたって昼にでも会ったらバレるんだから観念しろよ」
「でも、なぁ……」
「でもじゃない。三八度以上あったらちゃんと早退して休めよ」
「断る」
「少なくとも部活に来たら追い返すからな」
「馬鹿言うなよ。今俺が休むわけには……」
「一日ぐらいいなくたって大丈夫だから休め!」
ハッキリ言われて腹が立った。高校二年の六月のおわり。三年生が引退して、俺が主将、スガが副主将になって間もなく、名将と謳われた烏養監督復帰の噂が流れる中、浮き足立ったチームをまとめるのに必死だった時だ。
雨が降りだしてすぐに幼い弟が風邪を引いて、どうやらそれをもらったらしかった。とはいえ、小学校に上がったばかりの弟と高校生の自分では体力も身体の丈夫さも違う。少しの熱や倦怠感で休むわけにはいかない。三年生が引退してから、練習のやり方を少し変え、烏野が強豪だった頃の練習にもついていけるようメニューを少し厳しくした。烏養監督が復帰する今年、それから来年こそが全国の舞台へ舞い戻る時だと信じて。
そんな大事な時期に主将が風邪で休むなんてありえない。それをスガはすっぱり否定した。
「大地がいなくても俺と旭でちゃんとやっとくから心配要らないから」
「……俺がいなくてもいいって?」
体調が悪いせいで感情のコントロールが上手くなくて、普段よりも素直に憤りが声に出た。保健室の引き戸に手をかけてピタリととまったスガが日頃の愛嬌を剥ぎ取ったような顔で睨んだ。さすがに怯む。
「……質問で返すけど、大地は俺たちのこと信頼出来ないって?」
「!」
「大地と同じにやれるわけじゃないけど、一日ぐらいフォローできると、俺は思ってるんだけど?」
大きめの目が突き刺すようにこちらを見ている。細い矢じゃなく、太い槍みたいな。スガは顔の作りが小奇麗で、よく笑うから優しそうに見えるし、それで最初は舐められることだってある。でも、まともに付き合うとそればっかりじゃないのがわかる。芯が強くて、ここぞというときは、少し恐い。
見つめ合っていられなくなって視線を落とした。
「…………悪かった。今日のことは任せて休ませてもらう」
いつの間にか俺の背中に隠れていた旭が背後で安堵の息を吐いた。
養護教諭に早退許可証の記入を頼んで熱を計っていると、今まで堪えていた分まで熱が上がっていくようなどうしようもない倦怠感に襲われた。一度認めてしまうとダメだ。気持ちまで緩んできてため息が漏れた。
「……やっぱり部活、休みたくないな」
「大地、」
「大丈夫。わかってるよ」
素早く咎めるスガに手を上げて完全降伏した。こういう時のスガに逆らうのは、熱でフラフラの頭じゃ無理だ。万全の体調でも怪しいかもしれない。
作品名:スズメの足音(後)差分 作家名:3丁目