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■第六話■

　風呂から上がると、部屋が荒らされていた。
　窓際のオフィスデスクの棚からは参考書が何冊も抜かれ、漫画と小説を置いている壁際の本棚からも何冊か文庫サイズの本が取り出され、テーブルや絨毯の上に散乱している。
「スコール……オレはおまえを見損なったぜ……。健全な高校生のくせしてなんでエロ本がないんだ…!!」
「言いたいことはそれだけか」
　部屋荒らしの張本人は、人のベッドに寝っ転がって漫画を読みながら、深い哀愁に目尻を濡らした。一冊漫画を読み終えたらしく、適当にベッドに放って更に本棚を漁りはじめる。
「漫画があるのは意外だったけど、基本的に真面目で暗い話ばっかだし。なあ、エロ本の隠し場所教えてくれよ。ギャグ漫画貸すから。ギャグマンガ日和のアニメＤＶＤ貸すからさー」
「…………」
「あ、カードの攻略本とデッキ発見。なんだよスコも高校生らしいとこあるじゃん。デュエルしようぜデュエ……ウボァーッ!!」
　無言で繰り出した右ストレートがバッツの頬にクリーンヒットする。顔面が本棚にめり込んだ反動で、本がいくつか床に落下した。
「……せめて殴るときくらい、眉毛ぴくりとも動かさないのやめてくんない……？」　
「いいから黙って部屋を片付けろ。人としての常識を説くのはそれからだ」
　説教すべき事項は山程あるが、とりあえずプライバシーの侵害から指導すべきか。
「いってぇ〜。スコールが悪いんだぜ。明日の英語オレが当たる日だから、ノート見せてもらおうと思ったのに、なかなか風呂から上がってこないから。もうコレ無断で拝借するっきゃないだろ。教科書の本文なんだっけな……。マックスとニーナが遊園地のデート中に黒服の男に襲われて薬で身体を小さくされる話だっけ？」
「自分でするという選択肢は」
　ないんだろうな。
　バッツは元あった場所などお構いなしで、適当に本棚に戻していく。だが、すぐに拾った本を読み始めたり、本棚漁りを再開したりと横道に逸れるので、すべて片付け終わるまで眼を光らせていなければならなかった。
　最後に手に取った大判の一冊も、バッツはパラパラと捲る。双眸の瞳が興味深そうに動いた。
「おおっ、これアルバムだな。ＸＸ年度卒業、バラム保育園。みんなちっちぇ〜！　人間て、いつから醜く汚れていくんだろうな」
「そういう歪んだ見方はやめろ」
　幼い頃のアルバムなんて、存在自体を忘れていた。今にして思えば、保育所が強盗に襲われた事件以来、スコール自身が事件を思い起こしそうな物を半ば無意識に避けていたのかもしれない。
　鏡に映った顔の傷を今まで幾度となく見たが、当時の事件を思い出すことはない。
　スコールは、そんな自分に安堵していた。
　十数年前の話だ。今更、事件の最中に何があったのか知りたいとも思わないし、もう蘇ることはないだろう――そんな気がした。
「おーっ！　天使のスコール発見！」
　だから、バッツが何の気なく幼いスコールが写っているページを開いたところで、何かが変わるとも思わなかった。
　つい懐かしくなり、スコールはアルバムの写真を覗き込む。
　光沢のある紙面上で、顔に傷のない幼いスコールが涙を浮かべていた。泣きそうなスコールをあやしているのは、当時保育士になって間もない、新任の女先生だ。驚き慌てふためく様子で写っている先生の顔を見た途端、スコールのこめかみ辺りがずきりと痛む。無意識に手でそこを押さえた。
　なん、だ……？
　目眩がした。一瞬視界が暗転して、呼吸が止まる。
『――……ないで』
　耳元で切なげに慟哭する子どもの声がした。
　心臓が激しく胸を打つ。どくどくと、血が沸騰しはじめる。
　膝をつきそうになるスコールを現実に引き戻したのは、バッツの声だった。
「懐かしいなー……。オレの先生もよくこんな風に慌ててたっけな」
　夢から覚めたように、唐突に我に返る。
　相変わらず心臓は早鐘を鳴らしていた。風呂から上がって大分時間が経っていたから身体は冷めているのに、額がじっとりと汗ばんでいる。スコールは額の髪を掻き上げた。額と同様に、手のひらもじんわりと汗ばんでいた。
「アルバムならお前も貰ってるだろ。どこに置いてるんだ？」
　気分は優れなかったが、言うほどのものでもない。身体の変調を悟られないように、スコールはなるべく普段通りを装いながらバッツに尋ねた。
　バッツが少し瞼を伏せる。遠くを見るように虹彩の色を深くした。
「前の家に全部置いてきた。さすがに、もう捨てられてるかもな」
　前の家、とは二年間放浪生活する前に住んでいた家のことだろう。家賃を払うお金がなくて、追い出されたと言っていた。
　住む家も学校も離れて、鞄一つで全てのしがらみから飛び出したバッツ。
　子どもっぽく単純な性格に見えて、たまに驚くほど大人びた表情をする。そんなときは決まって、身の内の奥深い部分に重量のある鉛を抱えているような、重苦しい笑みを見せる。まるで、これ以上踏み込んでくるな、とでもいうように。
「なあ、なんでそんな顔してんの？」
「おまえが……」
　あまりにも淋しそうに笑うから。
　スコールには、バッツの領域に踏み込む勇気がない。言葉を濁したスコールに、バッツは僅かに目を細める。次の瞬間には、悪戯を企んだときと同じ笑顔を浮かべて、子どもみたいなキスをした。
　バッツは、決してそれ以上進もうとはしない。軽いキスをするだけの、オママゴトみたいな恋愛だ。
　だが、スコールにはそれが心地よかった。誰かと関わるたびに言いしれぬ恐怖感を抱えるスコールには、今以上にバッツを好きになっていくのが恐ろしくて仕方ない。
　鉛を抱えているのはお互い様で。
　きっと、互いに踏み込まないからこそ保たれている関係なのだろう。


　演劇部の練習がある日の放課後。早速、殺陣の演出指導が始まった。
「実はさ、何度か殺陣以外も手伝ってほしいんだよな」
　学校指定のジャージ姿で準備運動に励みながら、ジタンは脚本を読むスコールに言った。
「殺陣以外、とは？」
「この劇、今年の３月に三年生の卒業公演でやったやつを、新入生歓迎祭用にリメイクしたんだけど」
　三年生の卒業公演とは、文字通り卒業する演劇部三年生を中心に行われる、三年生最後の公演のことだ。演劇部は何度も賞を獲っているため他校からも人気が高く、公演には学外からも観客が訪れる。卒業前になると体育館を貸し切っての卒業公演が学校側から許可されていた。
「音響も殺陣以外の演出もほとんど完成してるけど、役者の演技がまだ未完成なんだ。さすがに入部したての一年生を出すわけにいかないから、当時の三年生が演じた役は、今いる二年と三年で賄うんだけど。一人二役演じなきゃならないヤツも何人か居て、舞台で通し稽古する段階まで進んでない部員もいるんだよ」
「公演まで三週間を切ってるんだろ。間に合うのか？」