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断崖の幸福

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■第七話■



 ……ああ、だから俺は怖かったのか。
 ぼんやりと自室のベッドに横たわっていたスコールは、閉じていた瞼を開けて上半身を起こした。背中を壁に預けて座る。自然と溜息が漏れた。
 俯いた視線の先には、皺になったシーツや立て膝をついた自分の脚がある。だが、物思いにくれる脳がそれを認識することはなかった。
「あっ! なに起きてんだよ、スコ。ちゃんと寝てろって」
「……バッツか」
「バッツか、って。この家に他に誰がいるんだよ。幻覚でも見たのか?」
「幻覚……。そうだな」
 当たらずとも遠からずな問いかけに、スコールの心は僅かに落ち着きを取り戻した。
 不機嫌な顔をして駆け寄るバッツの姿が、一瞬だけ過去の記憶と重なったのだ。スコールの脳裏ではまだ、赤い残像がチカチカと光っている。
「大丈夫かよ。やっぱ病院に行った方がいいんじゃないのか」
「医者が診て解決する問題じゃない。ただのフラッシュバックだ。突然十数年前の記憶を思い出したから、脳が混乱してるだけ……じゃないのか」
「じゃないのか、って。つーか、何? スラッシュバッグ?」
 袋を切ってどうする。
「スラッシュバッグじゃない。フラッシュバック。過去の記憶や情景をはっきりと思い出す、そういう現象のことだ」
「それって、ヤバイもんなのか?」
「ケースバイケース」
「なんだそりゃ」
 的を射ないスコールの返答に、バッツは呆れたように目を細めた。
 何らかのトラウマを抱える人間が、フラッシュバックが原因で発作を起こす、という話は何度か耳にしたことがある。実際、スコールが今日学校で倒れたのもそれが原因だろう。
「……俺はあのとき、死んでたかもしれないんだな」
 僅かに思い出した当時の記憶から、スコールが他人に対して抱いていた恐怖の片鱗を見た。
 年端も行かない頃に刃物を突きつけられ、顔面の肉を裂かれ、目の前で好きだった先生を殺されていれば、誰だって人間が怖くもなる。
「死んでた? スコールが? ハハ……。冗談だろ」
「バッツ?」
 唇は笑みを形作っていたが、バッツの目は笑っていなかった。眉間に皺を寄せて、双眸の奥の瞳が暗い色に染まっている。
「……そういえばおまえ、俺が倒れたときスゴイ顔して駆け寄ってきたよな」
 もしかしたら、バッツなりに心配してくれているのかもしれない。
 暗い顔をしたバッツに、スコールは少しでも安心させようと口元を緩めた。フッ、と小さく息を吐き出しながら、僅かに口角を上げて、穏やかな笑みを浮かべる。
「へえ、珍しいじゃん。スコールが笑うなんてさ」
 バッツの表情は硬いままだった。相変わらず唇は笑っているが、顔を顰め、苦々しく吐き出すように声を出す。
 スコールは心配するなという意味を込めて、手の甲でコン、とバッツの肩をノックした。
 いつも周りを振り回してばかりのバッツ。本気で慌てる姿を見たのは、今日が初めだ。知らず、笑みが深くなる。
「ああ……。不謹慎だが、少しおかしくて……バッツ?」
 バッツが形相を変えた。
 乱暴にスコールの髪を掴み、強い力で壁に向けて後頭部を打ち付ける。
「か、は……ッ」
 衝撃が来た瞬間、息が詰まった。
 なにをする、と睨むスコールに、バッツは喉の奥で嘲笑うように言う。
「おかしい? オレが? 普段ニコリともしないおまえが笑っちゃうほど、オレは変だったのか?」
 互いの息がかかるほど間近に迫ったバッツの顔には、激情の色が伺える。怒りで我を忘れているようには見えなかったが、髪を掴む手には、明確な苛虐の意志が込められていた。
「オレがどんな思いで、おまえの倒れる姿を見てたか分かるかよ」
「どんな……」
 バッツに噛みつくように口付けられ、スコールの言葉は遮られた。
 舌を差し込まれ、かと思えば強く吸い上げられ、息つく隙もなく好き勝手に蹂躙される。スコールはバッツの胸を押し返そうとしたが、乱暴な力で手首を掴まれ、両手を壁に縫い止められた。
 息も絶え絶えになったところで、下唇の端を噛み切られる。
「痛っ……」 
 バッツはようやく唇を離した。自身の唇についたスコールの血を、獰猛な獣みたいに舌で舐め取る。視線が交差した瞬間、スコールの背筋をぞくりと震えが走った。
 バッツの瞳の奥に、暗く澱んだ洞窟が見える。触れれば吸い込まれそうな、逆に全身を拒絶されるような。底の見えないバッツの瞳から、スコールは怯えに似た感覚が沸き起こる。
 怯える? バッツに怯えるなんて、馬鹿げている。
 胸中でそう呟きながら、スコールは苦笑を滲ませて言った。 
「冗談なら度が過ぎるぞ、バッツ」
「冗談? はなっからオレは、本気だよ」
 耳元で低く囁いたバッツが、スコールをベッドの上に押し倒す。
 身体に伸し掛かったバッツの手には、制服のネクタイが握られていた。スコールの両手首を頭上でまとめ上げ、手際よく拘束する。鬱血しそうなほどきつく結ばれ、自力で外すのは不可能だった。
 帰宅したときに着替えたシャツとスウェットは、バッツの手によって瞬く間に脱がされた。下着まで降ろされそうになり、スコールは抵抗を試みるが、身体の上に伸し掛かっているバッツの身体が邪魔で、両脚はまともに動かせない。四肢を拘束されては、為す術もなかった。
「どういうつもりだ、バッツ。俺はこんな気持ちで、おまえに抱かれたくない」
「こんな気持ちって、どんな? いつだってスコールはされるがままだったよな。抱きしめたって逃げないし、キスしたって嫌がらない。なのに自分からは何もしない。これ以上踏み込んでくれるなって、ただ訴えてくるだけだ」
「それは、お互い様……か、はっ」
 片手で喉を掴まれた。気道を絞められて、口からの呼吸を奪われる。呼吸する術を全て奪われはしなかったが、鼻腔からの呼吸だけでは水中で溺れる寸前の喘ぐような状態に近く、苦しいことに変わりはなかった。首から上に血が溜まっていき、徐々に頭が朦朧としてくる。
 脳裏で、またチカチカと赤い残像が点滅した。
 冷酷に嘲笑するバッツの姿が、記憶のなかの男と重なっていく。
「ひっ……」
 明らかに怯えの表情が混じったスコールに、バッツは些か眉を寄せ、傷ついたような顔をする。けれど、それはすぐに侮蔑な表情へと変貌していった。
「そうそう……。出会い頭にオレが近寄ったときは、そういう顔してたよな。がっちがちに緊張して、怯えた目ぇしてさ。顔の傷を触られるのが、すげえ嫌いで」
 言いながら、バッツは首を絞める手を離した。その手の指先で、スコールの傷をなぞる。
「怯えてるのを悟られたくなくて、強がってオレのこと拒絶してたのに……。なあ、なんで逃げなくなっちゃったんだ? もしかして、オレに惚れた?」
 またバッツは少しだけ眉を寄せて、悲しさを滲ませながら、口元を嘲笑の形に変える。 
 だが今のスコールには、酷薄に言い放つバッツの姿や言葉が、見えも聞こえもしていなかった。脳裏で点滅していた赤い残像が現実とシンクロして、男の面影がバッツと重なる。
 男からは、酒の臭いがした。言動は支離滅裂で、もしかしたら薬物も常用していたのかもしれない。フラフラと覚束ない足取りで、幼いスコールに近付いていく。
『ひっ……。イヤだ……ッ』