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囚われの君

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不機嫌な沈黙がぴりぴりと肌を刺す。かといって何も切り出すこともできず、クリスはただ黙ってヒューゴの後について歩いていた。居心地の悪い沈黙に、気まずそうに周囲を気にしながら、とにかく歩く。ビュッデヒュッケ城の広間を横切って階段をあがるときに、すれ違った者から向けられた驚愕のまなざしが、ひどく気まずい。
 実際、いささか異様な光景であることは自覚しているのだ。
 ヒューゴとクリスの間柄が、憎悪だけではない微妙なものを孕んでいることに気づいているものは多いが、それにしたって、体格の違う少年に引きずられるようにして歩くさまは、さぞかし奇異なものとして映っているだろう。クリスが本気で力を出せば振りほどけるだろうが、引け目がある以上それもできず、足音荒く歩むヒューゴにつれられて足を動かすしかなかった。
 古い扉を乱暴な手つきで開けて、クリスの部屋に入ったヒューゴが、片手で器用に鍵をかける。どうにか取り成さねばとは思うものの、どうすればよいかわからず、クリスはおずおずと口を開いた。
「あ、あの……ッ!」
 とたんに強く腕を引っ張られて、クリスはバランスを崩した。その隙に体勢を入れ替えたヒューゴが、ベッドの上に倒れこんだクリスの上にのしかかる。仰向けに倒れたクリスを、上から覗き込むヒューゴの眼差しには、ぞくりと背筋があわ立つほど強い光が宿っていた。普段は明るく輝く緑柱石の双眸が、灼熱の怒りで沸騰している。
「ヒュー」
「……あのね、クリスさん」
 呼びかけを遮ったヒューゴの声はひどく穏やかで、だからこそ余計にどれだけ深い怒りなのかを端的に示しているようだった。
 ……本気で、心底、怒っているのだ。
「俺、ちょっと前に言ったよね? 『クリスさんの命は俺のものだ』って」
「……覚えている」
 美しい月が冴え冴えとした光を投げかける夜、船の甲板の上ではっきりと告げられたのを、昨日のようにはっきりと思い出してクリスは頷いた。あの時もこんな風に、生命力に溢れる眼差しをひどく間近で見て、胸を躍らせたことさえもありありと脳裏によみがえる。
 もっとも、ヒューゴの眼差しに宿る感情はだいぶ今と異なっているけれども。
「……『他の誰の手にもかからない。私の命を断ち切る権利はヒューゴ、お前だけのものだ』……そう、約束した」
 抑えきれない友への思いと滾る復讐心、堪えられない恋情と疼く罪悪感との狭間で苦しんでいたヒューゴが、それで救われるなら、とクリスは頷いた。ヒューゴはそれによって自分の想いを正当化し、クリスの傍に居続ける『口実』を得た。事実、騎士団の頂点に立つクリスの私的な部分に立ち入ることができるものは居なかったが、逆にヒューゴの恋を危ぶむ声は多くあったし、クリスに対して「村を焼いた上に、族長の息子を篭絡した魔女」と罵るものは少なからず居たのだ。
 もちろん、その契約はただの口実だ。けれども、理性では理解していても感情では納得しがたいほかのものたちを押さえつけるには、格好の口実だったし、クリスたち自身にとっても都合のいい言い訳だった。ヒューゴとクリスという当事者と、その周りで同じ出来事に関係したものたちにとって、えぐられた傷は深くまだ癒えない。
 お互いの存在が痛みを確かに呼び起こすのに、それでも離れられないのだから…救われない。クリスはそう思う。
 ヒューゴは罪悪感の鎖でクリスを縛りつけることでクリスを手に入れ、クリスはヒューゴの姿を視野に入れ続けることで贖えない罪を直視し続けている。あまり健全な関係とはいえないが、それでも仕方が無かった。
 他にどんな道を選べたのか、クリスは知らない。
「じゃあ、俺が、クリスさんの心も身体も俺のものだから、傷つけていいのは俺だけって言ったのも覚えているよね?」
「もちろんだ」
「……だったらさ、昼のあれはなに?」
 するりと切り込まれた問いに、クリスは僅かに身体をこわばらせた。ヒューゴに自分の弱さを気づかれている、という事実は、羞恥よりもむしろ怯えを呼び起こした。
「……ごめんなさい……」
 まっすぐに落とされる視線を見つめ返すことはできず、クリスは微かに視線を逸らせて小さく呟いた。とたんにヒューゴの眼差しが険しくなるのがわかっていながら、視線を上げることはできない。
(わたしはこんなにもよわい)
 生きる、とヒューゴに約束をした。それはクリスを縛るものでもあったが、同時にクリスを護るものでもあった。「自分のものだから傷つけられるな、死ぬな」……自分の親友を奪った女に、この少年は不器用ながらもそう告げたのだ。お互い傷つきすぎて、直接的な優しさは余計につらいから、遠まわしでしか表現できないけれども、それは確かにヒューゴなりの優しさだった。
 その優しさに助けられていながら、それでも時折不意に逃げ出したくなる。「感情に任せて」「子供を斬った」、騎士としてあるまじき非道な行いと、罪の意識から。
「……ごめんなさい……」
 話としてはごくごくありふれたもので、ビュッデヒュッケ城を歩いていたクリスに、カラヤの幼い少年が切りかかった。村を焼いた騎士団の長であるクリスには大勢の恨みと憎悪がぶつけられ、それ自体はもう日常茶飯事となっていた。気配自体には割合早く気が付いたし、余裕を持って取り押さえ、問題を内々でおさめることができる……はずだった。
 けれども、実際にその姿を見たときに、クリスの身体が凍り付いてしまったのだ。このまま斬られれば、何も考えなくてもすむ――囁きかける誘惑に、抗えなかった。自分を殺すことでこの少年が満足し、かわりに深い傷を心に負うことになっても構わない。だって自分は居なくなってしまうのだから。
 偶然通りかかったヒューゴが同胞のナイフを取り上げなければ、クリスは今頃血みどろの死体となって横たわっていたに違いない。「自分以外のものに殺されるな」というヒューゴとの約束を破って。
「ごめんなさい……」
 潤んだ双眸を僅かに伏せると、眦からほろりと一粒の涙が零れ落ちた。堰を切ったようにあふれ出す嗚咽を堪えて、固く唇をかみ締める。これ以上涙を零さないように、かたくかたく瞼を閉じるクリスに、不意に柔らかい声が降り注いだ。
「……クリスさん」
「……ヒューゴ……?」
 おそるおそる眼差しを上げると、ひどく近い距離にヒューゴの表情が見えた。互いのまつげの数さえ数えられそうな距離に、思わず息を呑む。
「今回は見逃してあげるかわりに、もうひとつ約束して」
 こつり、と額と額がぶつかる。じわりじわりと伝わる温もりと、間近で囁かれる声の優しさが、嬉しくて……切ない。
「つらくて、どうしても耐えられくなりそうだったら……先に、俺に言って?」
 むき出しの首元に、するりとヒューゴの指先が絡みつく。子供らしく体温が少し高めのヒューゴだが、薄い皮膚をはさんで血管に触れるその指先は、いささか冷たく感じられる。
 まだまだ完成されていない、クリスより少し小さい手。狩りで鍛えているのだろう、幾分ごつごつしているものの、大人の手というには程遠い。掴めるものは少なく、その手で護りきれるものとなるとさらに少なくなる。
 ……けれど、クリスをこの場で縊り殺すことぐらいは、できる。
「……約束する」
作品名:囚われの君 作家名:猫宮 雪