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ファースト・ネーム・コンタクト

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「静雄君…君ってさあ、化け物に成りたいの? それとも人間に成りたいの?」

 ファースト・パルクールを池袋のビル群で、軽やかに見舞われ。
 学徒の範囲を疾うに超越した芸当を見せ付けられて、只管呆然と立ち尽くすしかなかった初心な高校1年生の怪力少年は、追い掛けていた人非人の同級生の言葉に、更に追い打ちを掛けられる事となる。
「…何が言いてえんだ」
「今日は、其処で終わり?って聞いてるんだよ。平和島静雄君?」
 嘲るように、挑発するように、パルクールの非道少年・折原臨也はビルの屋上から、未だ路上の途の静雄を煽る事を一切辞めない。
 無論、対象の土台は普通のビルなのだから、1階から階段かエレベーターで屋上へと辿り着く事は簡単に出来る。誰にでも出来る。が、そうした所で今のような技を持つ異質な標的は、また忍者みたいに壁伝いに走ったり、蛙みたいに四つ足で平行ジャンプしたりして隣のビルから他のビルへ、或いは地上へと段落付けて舞い戻り、静雄がビルの中を無骨に駆け上がっている内に難なく姿を眩ませてしまうのだろう。それぐらいの予測差…歴然とした能力不足と力不足は痛い程、相手の今の動きを見て知る事が出来た。目の前のビル1個に腕力脚力という暴力パワー全開でアタックしたとしても、全てを瓦礫へと粉砕させる程の力量を、静雄は未だ持ち合わせていない。悔しいが相手の言う通り、此処で終わりなのだ、今の追走劇は。
 くそっ、と静雄は闇雲に力任せに、臨也の立つビルの壁面に拳を突っ込む。拳は綺麗に入った。其処と辺り一面は真っ黒な穴になり、1個の洞窟が出来る。だが矢張り、どっしりとしたビルそのものは健在だ。屋上に居る臨也の足許を1mm振ら付かせる事も侭ならない。これでは例え何遍繰り返したとしても、結果は日が暮れゆく内に逃げられて終わりだ。それに臨也には態々待ち草臥れる程、静雄の追撃を待つ義理も無い。無駄な行為だと解っていて静雄は、その一発だけ放った。己の心に諦めという決着を付けさせる為、そして腹癒せにだ。
 万策尽きたと認めた昏い顔で、静雄が荒く深い溜息を吐いて、俯くと。
 愚の骨頂の一発を見下して、冷酷な鉄槌の声音が、夕暮れの日陰から静かに落とされた。
 ───新たな、別の火蓋となって。
「ねえ…失望させないでよ」
 …嫌な意味でも表情豊かで、人間味に溢れていた筈の臨也の声が突然、豹変して温度を全く失くした事に静雄は些か驚き、再び相手を急ぎ見上げる。 
 遠くにある犬猿の仲の顔は、日に翳って益々視え辛いが、性格を滅せば端正であろう作りが鉄仮面に成ると、こうも『化ける』のかと静雄は内心、戦慄いた。

 もはや生きた人間の顔じゃない、まるで死に顔。
 その白い能面には、蒼い血だけ通っているような…此奴は誰だ、何者なのか。
 そもそも何故、下方で動きの止まった静雄の存在を、今や大胆に待ち伏せているのか。逃げ切れるのに、そのまま逃げ去らないのか。
 不自然、不可解だ。何故そんなに今、お前は【哀しげ】に黄昏れて佇んでいやがる──!?

「…何だよ、怒ってんのか? 何故、手前が俺に怒る必要が有る。はっきりしろ…止めて欲しいのか。俺に、掴まえて欲しいのかよ」
 暫く待ったが、もう返事すらない。相手をする価値すら死んだのか。
 静雄の動きが止まるのと同時に、生気のない無機物な只の塊に成り変わった臨也に対し、思わず静雄は怖気立ち、低く喉を澱ませる。
 無性に腹が立った。沸騰する常の加熱の怒りではない、底冷えする妙な苛立ちは、静雄の不甲斐無さに対峙した彼に【そんなんじゃ、こちとら生きるのも詰まらないよ】と傍若無人に当たられている、気配にだった。静雄はじわじわと逆毛立つ。理不尽な理屈の発生に。
「ったくよォ…俺に、何を期待していやがるんだ…──手前の言う『化け物』級への脱皮か、それとも、真っ当な『人間』らしい成長の方か?…いや、今の手前の、手品みてえな技に対抗し得るのは…『化け物』の方だよなあ?」
 全く腹立たしいにも程が有る。本来ならば、静雄は臨也を殺したい。なのに臨也は今、自身で勝手に《仮死状態》となっている。
 止まった静雄を見ただけで、臨也の心は生きながらにして死んだ。
 こんな屁理屈な当て付けの事象が有るものか。
 一瞬前迄は確かに、さっさと静雄という存在に飽きて絶望して死んで欲しかったのに、いざ見せ付けられると怒りの余りに目眩がしてきた。辞めだ、撤回する。こんな八つ当たりをされては此方迄もが、下手な心残りに縛られてまともに成仏出来そうにもない。すっきり出来ない。…このままじゃ死なせてやれねえ。簡単に殺してやるなんて、もう冗談じゃなかった。それに今の儘では恐らく、静雄の手で殺す事そのものが敵わない。止まった手では、臨也には手が届かないからだ。
「そうかよ…そんなに俺を、『人』の輪から遠ざけてェか。『人間』…辞めさせてェか」
 静雄は、歯を剥き出してニタリと笑う。仮に苦心して、どうにか『人間』らしい手で殺してやった場合、臨也は【君は、人類史上最低の『人間』だ】【中途半端で本当に、詰まらなかったよ】と身勝手な烙印を静雄に押し、今と同じ失意の鉄面皮の面構えをして見下して嘲笑して、一人で完結して冷えて消えていってしまうのだろう。だったら、
「そんなに、俺を『化け物』に仕立て上げて、満足した顔で死にてェか。だったらよ、」
 成ってやる。
 もう静雄のプライドが許さなかった──二度と、勝手に一人で終わるなよ、という釘刺しの宣誓だ。
「お望み通り、俺は、手前専用の『化け物』に成り上がってやるぜ」
 正々堂々と正真正銘、相手の存在を見上げる。
 臨也が能面なら、静雄は般若に成り変わった。
 元来、静雄は暴力が嫌いだった。それは自分の弱さだったからだ。
 が、臨也一人にだけぶつけるのなら、本望だ。寧ろ今迄の分も含めて臨也で暴力を全て消化すれば、静雄は『人間』社会に赦されて、極楽に行ける気さえして来た。その思い上がりと勘違いは臨也と類友の屁理屈に違いなく、諸刃であり落とし穴にも成り、因果応報で地獄に墜ちる可能性も大なのだが、それならば臨也諸共だ、それで上等な、殺し合い成立だろう。
 こうなれば、静雄の覚悟は決まった。
 これからは、お前一人に向けて、愉しく前向きに容赦の無い暴力を集約して、奮ってやろうと誓う。
 どうせなら【最高に、楽しかった】と言わせて、逝かせてやろうじゃねえか。
 折角だから【もっと生きたかった】と悔しがらせて、生きたがる息の根を止めてやろうじゃねえか、と。
「そうやって…手前を殺してやる。折原臨也君、よお」
 ──真っ直ぐに見通す、その澄んだ思考回路と、挑戦状を惑う事なく叩き付けて来た静雄の姿態に。臨也は次第に目を見開き、予想外の純粋な告白を受けた思春期の少年の顔に、じわりと立ち戻った。

 それは紛れも無い、普通の『人間』の顔へと。
 赤い、血の気の有る、温度の有る有機物にと。

 どうしようもなく止めようもなく自然にみるみる口角が上がっていく口唇の中だけで、臨也はそっと(ビンゴ)と呟いた。恋をしたように頬を徐々に赤らめて、うっとりと潤んだ瞳で、再び静雄をじっと見下ろす。
 半端に色褪せ掛けた人間世界の癌が、どうやら息吹を取り戻した。