美獣と女
「……っ、!」
突如浮上した意識に対して、体中が一斉に痛みを訴えてくる。
頭から、背中から、腰から。妙な角度で体に押しつぶされた手首から。
「あ、わりい」
そんな声がくすくすという笑いと共に降ってくるのを認識したのと同時に、下腹部の辺りになにやら温かな重みを感じた。
瞬きを繰り返しているうちにはっきりしてきた視界が捕らえたものは、遠く天井を背景にした端正な顔――
「……姉さん…?」
「Guten morgen,可愛い俺のヴェスト。これ以上ないほど爽やかなお目覚めだろ」
「…いや、というか重いのだが」
「お前のムキムキなら俺の体重くらいどうってことねえくせに」
確かに重み自体はそれほどでもないが、乗っている場所が問題だ。非常に危ういので早く降りて貰えるとありがたい。
今まさに夢の中で狂気を孕んだ美しさを周りに振り撒いていたその人は、仰向けになった俺に馬乗りになっての顔を覗きこんできている。
むき出しの腕や足、首筋に感じるふわふわとした感触から、俺が寝ているのは先ほどまで座り込んでいたソファーの下のラグの上であることを理解した。
目覚める瞬間体に感じた衝撃から考えるに、不覚にもソファーで転寝していた俺を姉が無理やり床に引き摺り下ろしたのだろう。
しかし一体何のために。
「っていうかさあ、今のはねえよ。女の子に向かって『重い』は禁句だぜ?ったくそんなんだからカノジョできなかったんだな」
「……」
俺を見下ろしながらああだこうだ喋る姉は、良く見ると非常に珍しい格好をしていた。
さほど大きすぎもせずかといって小さくもない、非常に形の良い胸を覆う丸みを帯びた三角形の布。
むき出しの肩に伸びる紐はわずかにずり落ち、露になった鎖骨が綺麗に窪みを作っているのがわかる。
無駄な肉の付いていない白い腹、なめらかなラインを描く細い腰を覆う黒い紐。薄布一枚纏った下腹部は俺の臍の少し下あたりに押し付けられていた。
つまりは下着しか着けていないのだ、この人は。
夏場の風呂上りには大抵下着を着けた上にバスタオルを引っ掛けただけのあられもない姿で出てくる姉。
目の毒だからやめろと何度も言っているのだが、聞いたためしがない。
最近ではこちらも慣れたもので、姉の下着姿を見るくらいのことでは動揺することは無くなったのだが……こんな格好は見たことが無い。
彼女は普段寝る前には、俺のものと同じような薄いタンクトップと男物のトランクスを好み下着として着用しているから。
脱衣所に出ていたものを洗濯したことはあっても、彼女がこういったものを身に着けるのを目の当たりにすることなど、今までなかった。
単純に言ってしまえば、その――上下揃った女性用の下着、を。
「……」
「あ、目ぇ逸らしたな?お姉さまのあまりのセクシーさに動揺しちゃったか、そーかそーか」
かわいいやつ!などと言いながら、彼女はにんまりと嫌な――見苦しいとか、可愛げがないとかいうのとは別の意味で――笑みを浮かべている。
「……何を考えているか知らないが、風邪を引く前に服を着たほうがいいんじゃないか」
「風邪とか言って心配してくれるふりして、本当はムラムラしてるだろ」
「…………」
沈黙は肯定の証、などと初めに言った人間は一体誰なのだろう。とりあえず二、三発殴らせてほしい。
かといって何か一言でも喋ればその瞬間ボロがでそうで、口を開くことができない。
流石は元軍事国家である。きっと、俺の反応を全て計算した上での行動なのだろう。
まったく嫌になる。その能力をもっと有益に生かしてほしい。
「ヴェーストー、素直になれってー」
「…ならば言わせて貰おう、俺の精神安定のためにも今すぐ降りてまともな服を着てくれ」
「んー、却下!だな」
作戦成功といった悪戯っぽい笑みを浮かべた姉は、体を折り曲げてぐっと顔を近づけてきた。
鼻が触れるくらい近くに迫る端正な美貌に浮かべられた表情が酷く色を孕んでいて、ますます心臓に悪い。
さらには俺の下腹部に押し付けられたままの腰が緩やかにくねり始める。
胸のあたりに感じられる柔らかな感触が、唇に吹きかけられる吐息が、淫靡な熱を湛えた赤い瞳が――ヴェスト、と俺を呼ぶ甘い声が。
ありとあらゆる要素が俺の理性の壁に一斉攻撃を仕掛けてきて、今にも突き破られそうなそれを抑えこむのに全神経を集中させなければならなくなった。
「……なあ、ヴェストぉ」
「…………」
我慢しなくていいんだぜ?
たっぷり色を含んだ吐息に載せて言葉が耳に直接吹き込まれるのと一緒に、なけなしの理性ががらがらと音を立てて崩れていくのを俺は確かに聞いた。
人間離れした崇高な美しさを持つかのひとは、誰よりも人間的な欲を持った小悪魔でもあり。
双方の面はそれぞれたまらなく俺を惹き付け、魅了し、そして翻弄する。
まったく厄介な相手に囚われてしまったものだと思いながら、それでも抗えない――否、抗おうとしない自分は。
もうどうしようもないほどに狂わされてしまっているのかもしれない。
(……まあ、それも悪くないか)